07:向き合う者

王都の一角にある巨大な豪邸。
先日の巨大な左手の襲撃から一夜明け、息を潜めていたような静けさは突然破られた。
「もう宜しいですわ!彼方はいつまで私を子供扱いすれば気が済むんですの!?」
「なりませぬ!まだ外は兵の哨戒が続いております!安全が確認されるまでどうか…」
「お黙りなさい!」
扉が開かれて飛び出してくるのは、気品を感じさせる刺繍の入ったブラウスに身を包んだ女性。
艶のあるブロンドの髪をロールヘアに整え、釣り目がかった瞳は鬱憤を炸裂させた怒気を隠そうともしない。
その豪邸から飛び出し、門から抜け出してしまう頃になって、漸く従者らしき初老の男が出てくる。
「おお何という事…」
「エディ!」
さらに初老の男の後から、豪華な衣装に身を包んだ男が駆けてくる。
「旦那様!またヴァネッサお嬢様が…!」
従者の言葉に目頭を押さえて盛大な溜息をつく男。
貫禄のある顔つきが一層険しくなるその男は、ソレイラントで最も力を持つ貴族の一人、ラ・シャンプティエ公爵である。
「全く…幾つになっても親の心配ばかり掛けよって…」

屋敷から飛び出して暫く、一体どれほど王都の賑やかな街の中を駆け回っただろうか?
家の使用人達が探し回る目を掻い潜り、街の中をアテも無く歩き回る。
街中でやり過ごすのは案外簡単だった。
使用人達は普段の衣装や髪型を目印に探している。
ならばあえて地味なローブを用意し、自然体で闊歩しながら裏路地にでも消えてしまえば見つからない。
下手な動きをしてはかえって見つかる。
「お父様ったら、久々に王都に連れて来たと思えばまた新しい縁談を持ち掛けて来るなんて…」
呆れ返り、使用人達をやり過ごすうち、ふと路地裏に目が止まる。
そこは大貴族の娘とはあまりにも縁が無さそうな場所の筈である。
しかし彼女、ヴァネッサは何かを思い出したような遠い目となり、その場で暫く立ち止まる事となった。


王都の郊外にある聖堂の裏。その集合墓地に彼等の姿はあった。
大きく掘られた墓穴に丁重に収められる棺。
聖書を左手に朗々と安らかな眠りを祈るはシスティルである。
他でもない、今ここで行われているのはリーフの葬儀であった。
参列者は司祭を務めるシスティルを含めて4人のみ…レクスとライフとラティア…という非常に寂しいモノとなった。
既にリーフの顔を見る事も適わず、漆黒の棺に刻まれた聖印を無言で見つめる。
十字を切り祈り終えると、そんな様子を伺いながらシスティルが話しかけた。
「…本当に良いの?実家の近くで埋葬しても…」
「良いの…私の実家はデッドリーポイントが近いから…ここでいいの」
システィルの言葉を途中で遮る、その心境は如何なるものであろうか。
ライフはそのまま押し黙ってしまうと、両手で土を掬う。
名残惜しげに暫し棺を見ると、静かに土を掛けていくのであった。
ライフに続き、レクス・ラティアと土を掛ける。
そんな中で一人の男が遠くから声を掛けてきた。
「アルベイル氏、ここにおられましたか!」
ラティアとシスティルが振り向き、レクスも一瞬目線のみを向けて確認する。
その身なりから、やんごとなき身分の使いの者だという事は人目で分かる。
「陛下が呼び出された時間を2時間も過ぎておりまする!一体何を…!」
「静かにしろ」
駆け寄ってくる男を一言で制するレクスは、ゆっくりと立ち上がる。
「葬儀の最中だ。静粛にするマナーくらい学ばなかったのか?」
「何と!?」
正直、最初はこの男も、単なる墓参りの類と思っていた。
葬儀にしては参列者があまりに少ない為、当然であろうか。
「あとは私がやっておくわ…」
皆の視線がライフへ集まる。
土をかぶり始めた棺から視線を離す事無く呟くライフは更に続けた。
「寧ろ、この子と暫く二人だけになりたいの…用事が済んだらまた来ればいいわ」
暫し沈黙する一同ではあったが、レクスが踵を返した事で、使いの男が歩き出し、慌ててラティアも後を追う。
システィルは残ろうとするが…
「貴女もよ、大丈夫…今更自殺なんて真似するほど私もバカじゃないから…」
システィルも暫し考えたが、近くの聖堂に一旦引く事にした。


男に案内されながら、レクス達が向かうは王城であった。
聖堂の近くまで乗り付けていた馬車に乗り込み、王都の大通りを駆けていく。
天蓋付きの見事な馬車の車内で暫し揺られる事になった。
「あの…今日は先生にどんな用件で?」
ラティアは何も聞いていない。
あの王がレクスを随分贔屓にしているのはよく分かったが、はて今回は何事なのかと言えば思いつかない。
その質問には使いの男が答える。
「他でも御座いません、陛下御自らアルベイル氏の活躍を評したいと…その日取りを先立って言付けた筈ですぞ。そもそも如何に遅くとも今朝から打ち合わせに参加して頂かなければ…」
「筈も何もない。知り合いの葬儀に出ていた事で小言言われる謂れはないだろう」
「しかし陛下にも御都合というものが…」
「こっちの弔事くらいの都合は考慮して欲しいものだがな」
取り付く島もなくたじろぐ男。
王やその使いの男に随分な態度で出るものだと、ラティアは思わず苦笑いするのだった。

城の外れにある大庭園に到着したのはそれから数十分後の事である。
この大庭園は、普段は王室お抱えの庭園だが、お披露目を目的とした行事の折に度々使用される広場としても機能するよう作られている。
まず驚くのは門の前には、警備兵が並ぶラインの外から、馬車の到着を待ち焦がれて沸き立つ大衆の群である。
馬車の中ではラティアが一体何の騒ぎかと数秒考える。
英雄の凱旋を一目見ようとする人々のような…英雄?
そこでラティアは漸く納得した。
レクスの態度は普段と変わらないものだが、思えば先日の活躍はなるほど、どう控え目に見ても英雄と謳われるに十分過ぎるほど足る実力と活躍であろう。
御者が門の前で馬車を止め、控えていた使用人の一人が馬車の扉を開ける。
周囲の黄色い歓声は愈々最高潮に達する中、当のレクスはそれを気にする風でもなく、真っ直ぐ門の中へと向かっていく。
ラティアは馬車の中から身を乗り出すようにして、レクスを見守った。
吹奏楽隊のトランペットが勇壮なファンファーレを奏でる中、レクスが真っ直ぐ歩くのは、広場のステージへと続く緋毛氈。
ステージの階段を上り始める手前で、控えていた一人の貴族が突然レクスに声を掛けた。
「陛下がわざわざこのような催しまで準備なされたというのに、2時間43分も遅刻とは良い身分だな!成り上がり平民が!」
そんな声も全く意に介さず、真紅の階段を上っていく。
その先にいるのは他でもない。エドゥアール国王その人である。
「知人の葬式に行っていた」
「なるほど…それは迷惑を掛けましたね」
当の王が全く怒っている様子が無いのが、一層貴族の男の喚きを空しくさせる。
「葬儀など、先日の合同葬儀で済ませてしまえば良いではないか!」
流石にその喚きを不快に思った国王は大きく声を張り上げた。
「静粛に!」
王の一声は流石鶴の一声。周囲の歓声がピタリと止み、貴族達を一先ず黙らせてしまうと、再びレクスを見遣る。
「申し訳ない、私もこの後直ぐジェンダ王との会談が控えている身。略式で行いますが構いませんね?」
「ああ」
エドゥアール王はレクスの同意を確認すると、左手でマントのブローチの石に触れ、右手を天に向けて真っ直ぐ伸ばす。
王族が唯一神グローリィへの祈りを捧げる姿勢とされるそのポーズで、朗々と言葉を紡ぎ始めた。
「神より賜りし聖地、ソレイラントが王都ソレスティア。此度邪なる幾多の魔を退けし勇猛なる者に、ソレイラント第52代国王エドゥアール・ド・ソレイラントの命により、之、レクス・アルベイルに”フォンティーヌ”の名を授ける」
朗々と紡がれる言葉の内容に一同が固唾を呑んで聞き入るが、その一文の締めに再び抗議の声が上がった。
「正気ですか陛下!?フォンティーヌの名は武功を立てた者の中でも、一際輝く功績を収めた一部の貴族のみに授けられた栄誉ある名前…。それを平民に名乗らせるなど!」
同じような不満を漏らす貴族は決して一人二人ではなかった。
貴族達の小言がステージの上に向けられるも、エドゥアールは意ともせずと言う風に涼やかに言い返す。
「一際輝く功績…では彼方達の中に、あの時彼を超える功績を立てた者が居ますか?」
異を唱える貴族達は一様に苦虫を噛むような顔をする。
地を埋め尽くすゾンビに途方も無い魔力を備えた巨大な怪物。立て続けに全てを片付けろと言われて出来る者など居ない事は事実だ。
再び押し黙るしかなくなった貴族達を他所に、再び王の祈祷の姿勢を取ると呪文を小さく紡ぐ。
すると、ステージの裏に控えていた従者が恭しく掲げたマントが忽然と消え、エドゥアールの右手の先に現れ、大きく翻りながらその手に舞い降りる。
伝承では、ソレイラント初代の王は天より降りてきた宝珠と、不思議な形をした葉を受け取ったと言われている。
ブローチにはその時の宝珠と、葉のレリーフが刻まれており、ソレに左手を置く事で神への誓いや祈祷を表すとされ、また爵位を与える際にその光景を再現するのが習わしとされている。
「神は祝福をくださいました。神の代弁者として私、エドゥアール・ド・ソレイラント…レクス・フォンティーヌ・アルベイルに男爵<バロン>の称号を…」
「断る」
今度はレクスが中断させた。
英雄の名の拝命に更に貴族への登用という、史上稀に見る出世劇の中での事だ。
エドゥアールは苦笑を漏らす程度の反応だがこれは最早例外中の例外の反応。
何たる粗相だ無礼者だと再び喚き散らす貴族達や、中には卒倒する者もいる。
外から眺める大衆からも、混乱のどよめきが立つのも無理はない。
馬車の中から見守っていたラティアも、馬車の中で派手にズッコケてしまう。
「ちょッ・・・先生!?」
エドゥアールも嗜めるように言う。
「いえレクス…彼方はコレを受け取る資格は十分にあるでしょう」
「アレの末席に加われ…と?」
レクスが振り返りもせず、気だるげに指先だけで喚き散らす貴族達を指す。
「ハハ…結果的にはそうなりますね…不満はご尤もですよ。ですがこの式典は、先の騒ぎで不安と混乱に陥る人々を奮い立たせる側面もあります…どうか…」
周囲に聞こえぬよう努めながら話すエドゥアール。
「悪いが面倒な政や軍務に関わる気は無い。それより馬車を1台貸せ。グランドル方面に用事がある」
「馬車ですか…?それくらいなら手配はしますが…」
「よし…」
そのままレクスはステージから降りていってしまう。
周囲の貴族達の野次などレクスの耳には雑音にしか届いておらず、そのまま真っ直ぐ城を後にしていく。
「やれやれ…相変わらず自由な人だ」
「陛下」
苦笑気味に溜息を漏らすエドゥアールの傍らに何時の間に現れたのやら、ジョーカーが話しかけてきた。
「…彼には助けられたようですね」
周囲に気取られぬよう視線を逸らさず、ジョーカーと話し始めた。
「破天荒な形で爵位を蹴って目立つ事で、三流貴族達の目を一手に引き受ける…ですか…」
エドゥアールに笑顔で擦り寄って来る腐敗した貴族達は多い。
また宰相フランシスとは密かな睨み合いの関係にある。
これらの貴族の目を一時的に他に逸らせるだけでも、エドゥアールにとっては状況は大きく違うのだ。
「…面白い事を…失礼ながら、先の入団試験で失格にしたのは失敗では…?」
「ハハ、彼は一国のシュヴァリエで収まるほど小さな男ではないよ」
「随分と買っていらっしゃいますな」
ほんの数秒間を置き、エドゥアールは改めて表情を引き締める。
「…で、何かあったのでしょう?」
「はっ…彼の連れに少々気になる者がおりまして…」
怪訝に思い、エドゥアールはジョーカーに視線を向けた。
「フォーリア公爵の息女ですが、聖典にある”伝説の大妖精”と契約している可能性があるのです」
「根拠は…?」
「先日のヘルの左手事件の折、負傷していた多くの兵・民を一瞬にして癒したと…またその際、輝く孔雀の姿を目撃した者が多数おります」
ヘルの左手事件とは、先のレクスの活躍で鎮圧された先日の怪物の事件に他ならない。
冥界の女王ヘルの特徴である、半身が腐敗した死者であるという謂れから、誰かが言い出した呼称であった。
さて、その事でエドゥアールは暫く考え込む。
「伝説の大妖精…フェンが現代に再び姿を見せましたか…レクス、注意を引き付けてくれたのはいいですが、餌が上等過ぎませんか…?」


聖堂の裏の窓からは集合墓地の様子がよく伺えた。
レクス達が発った後、一人で埋葬を続けていたライフを見守るシスティル。
「…何で私は…こんな何も出来ないのかしら」
先日宿の前で立ち往生していた時もそうだ。
本気で止めようとすれば何か出来たかもしれない。
今も何かする事で、彼女の哀しみを和らげる事はないだろうか…と。
しかし打開策が無く、行動を起すのに二の足を踏んでしまう。
「…本当、卑怯で臆病なんだから…」
気がつけば、ライフが救われるよう、神への祈りを捧げる自分がいる。
悪いとは言わないが、祈るだけで何か変わるのだろうか…。
そう思ったときには、自らを嘲笑する言葉が零れていた。
「思い遣る気持ちは汲むけど、それで自虐になるのは間違いですよ?」
何時の間にやら、システィルの隣には淡い光に包まれた修道女の姿があった。
見た目はシスティルよりやや上だろうか、尤も彼女のような存在に見た目は大した問題ではない。
彼女こそ、つい先日システィルと契約した妖精、フェンバートであった。
「じゃあ…どうしたらいいのかしら…」
再びライフへと視線を戻すが、それでは先ほどと堂々巡りでしかない。
それはシスティルもよく分かっていた。
しかし、フェンバートの表情には何の悩みも不安も浮かんではいない。
「今あの子はどん底にいるわ…だから大丈夫よ」
「え?」
言っている意味が繋がらない。
一体何をもって大丈夫と言い切れるのか、やはり妖精とはよくわからない。
「運命っていうのは波を持つわ。どん底にいるってコトはね…あとは昇るだけなの。だから大丈夫」
「暴論ですよ…ソレ」
大きく溜息をつくシスティルだが、そんな様子の彼女にさえ微笑みかける。
「そのうち分かるわ。…それまでは、登る道が分からなくてのたうち回る事があっても…ね」


ライフは墓の前に座り込んでいた。
泥だらけになった手を払うこともせず、墓石に丁寧に刻まれた字を何の感情も表す事も無く眺めているのみであった。
思考は思考になっていない。
真っ白と言うにはノイズが多く、では何の思考かといえば定かにならない。
常に自分の隣には、この墓の下に眠る人物がいた。
一体何が狂わせたのだろうか?
そう思い始めた頃だろうか。ようやく思考は一つの方向性を見つけ始めた。
「あの騒動には黒幕が居るわ…」
そう呟いた瞬間から、色を無くしていた瞳に力が宿り始めた。
「見つける…絶対に…地獄の底だろうと探し出して…首抉り取ってでも此処に連れてきてやるんだから…」
それは怒りと哀しみに染まり切った力。
そんな赤黒い念が彼女の心を支配しつつあった。


聖堂までは徒歩で戻る事にしたレクスとラティア。
大騒ぎとなった人だかりをやり過ごすのにラティアは随分と人込みに揉みくちゃにされてボロボロのまま付いて行く事にはなったが。
さて、流石にあの広場に大勢の人が集まっている影響からか、街の通りの人々はやや少なく見える。
「先生ぇ…」
珍しく情けない声を上げるラティア。
あの人だかりを抜ける折の疲れもあるだろうが、まさか爵位授与を蹴る大胆な行動まで起すとは思ってもいなかったようである。
「暫くは身の回りに気をつけておけ。巨人暴動事件の犯人の他にも、バカ貴族どもに狙われるハメになるからな」
「へ?」
一瞬レクスの言う事の意味が理解できず固まってしまうラティア。
その立ち止まった瞬間の事だった。
「うわっ!?」
突然脇にぶつかって来た人物共々盛大に倒れる事になった。
相手はシンプルな黒いローブを着込んだ女性のようである。
レクスは小さく溜息をつくと、ラティアらに歩み寄った。
「だから周りには注意しろと…大丈夫か?」
レクスが黒いローブの女に手を差し出そうとしたが、女はそれより早くにレクスの影に回りこんだ。
「…何だ?」
「助けてくださいまし!」
ラティアも起き上がるが、別の声がしたのはその時だった。
「やっと追いつきましたぞお嬢様!」
「旦那様も心配しておられます!」
そこにはどこかの屋敷の使用人だろう3人程度の男達が迫っていた。
「そこの平民!どきたまえ!」
「…なるほど、屋敷から逃げ出した家出お嬢様か」
レクスはそれだけ察知すると、女の首根っこを掴み男達に差し出す。
扱いは最早どこぞの子猫同然のものだ。
流石にその扱いは感に障ったのだろう、女が急に騒ぎ出す。
「首輪でもして繋いでおけ。只でさえこれから面倒になるのに、そういう面倒事に巻き込まれるのはご免だな」
「なっ!?」
女はレクスの手を振り解き、使用人達をバックに振り返るとレクスを力強く指差し、ローブのフードを剥ぎ取った。
「無礼者!ワタクシを誰だと思っておりますの!?」
「知らん」
即一刀両断。
女は少しヒステリック気味に「っくぅぅぅ!」と声を漏らすと高らかに声を上げた。
「ワタクシはシャンプティエ公爵家次女、ヴァネッサ・オード・クリスティーヌ・マリヴォンヌ・ド・ラ・シャンプティエ!その毬栗頭の中にワタクシの顔と名前を刻み付けられる事を光栄に思いなさい!」
ビシっと音がしそうなほど力強くレクスを指して言い放つが、レクスそしてラティアの反応も呆然として鈍いものだった。
「え…っと、光栄もなにも…」
如何に反応していいか迷ったラティアは、レクスとヴァネッサの間で視線が泳いでしまう。
呆れ顔のレクスが返したのはその直後だった。
「ああ、じゃあその栄えあるシャンプティエ家に早く帰ったらどうだ」
「ハッ!?」
漸く自分で地雷を踏んでいた事に気付くヴァネッサ。
「ささ、お嬢様」
「旦那様がお待ちでございます」
従者の男達に半ば引き摺られるようにしていく。
「いぃぃぃぃやぁぁぁぁぁ!!」
呆れたものか滑稽と言ったものか、呆気に取られるのは残された二人である。
「先生…なんだったんでしょう?」
「知らん」


日が沈み、数多の星と、南の空に半円を描く月が浮かぶ。
王都の一角にある豪邸、ラ・シャンプティエ邸の一室は少し遅い夕食の一時を迎えていた。
一室といっても大きな講堂並みの広さは優にあり、一面大理石の床や壁に緋毛氈が敷かれ、これまた非常に広いテーブルに並ぶようにして公爵と公爵夫人、そしてヴァネッサを含めた兄弟6人…8人の家族がテーブルを囲んでいた。
夕食が遅くなった理由は他でもない、ヴァネッサの家出に伴う諸々の始末に追われていたのであった。
「困ったものだ。ラ・シャンプティエ家ともあろう者が、縁談を前に脱走するなんて…」
重苦しい雰囲気の中で口を開いたのは、長兄であるドミニクであった。
父譲りのブロンドを揃えて肩口まで垂らした、穏やかそうな人柄の兄である。
軽く溜息をつくが、どこか貫禄がつき始めた落ち着いた物言いでヴァネッサに話を振ってくる。
「相手はあのヴェレッツェ伯爵でしてよ?!宴の席以外ではもっぱら木偶の坊だと聞き及ぶ彼の元に嫁ぐなんて耐えられませんわ!」
即座に反論するヴァネッサではあるが、突然自分が使っていたナイフが跳ねて目の前を掠めていく。
驚きの声を漏らすが、直ぐに誰の仕業か気付き、驚いた顔のままその犯人に視線を向ける。
「アテがあるだけ幸運だと思うコトね。グラモン子爵もヴァランチェ伯爵もウェーダ伯爵も…次々に破談にされる私よりよほど恵まれてなくて?」
それは姉のミレーヌである。
魔法でナイフを跳ね飛ばしたこの姉は、兄弟の中で最も恐れられるキツい性格をしており、両親や長兄以外はヴァネッサを含め皆頭が上がらない相手であった。
その性格を象徴するような釣り目気味の細い眼鏡は灯りを照り返し、赤黒い炎のようなオーラさえ感じられる。
特に縁談の話になると顕著になる辺り、一体どれほど破談になったのかを静かに物語る。
何故断られたかは言うまでもない。
そんな姉の様子に、次兄や妹達も竦み気味であった。
「やめないか」
沈黙を破って始まった子供達の話に、一家の長である父、シャンプティエ公爵が制した。
小さく溜息を漏らした父はヴァネッサを真っ直ぐ見据える。
「目に余る行動は今に始まったコトではないが…何かあったのかね?ヴァネッサ」
「半年前に家を飛び出した時からよねぇ…」
両親の言葉にヴァネッサは一瞬目を丸くすると、すぐに視線を逸らしてしまう。
やはりか。
「いい加減、何があったのか話してみなさい…」
「それは…」
神妙な顔で黙秘してしまう。
ソレに痺れを切らしたのは姉である。
「ヴァネッサ…お父様達に隠し事かしら…?」
相変わらずこの姉の眼光は恐ろしい。
眼鏡の光という薄壁一枚向こうは地獄の業火が押し寄せている…と例えるべきだろうか。
「わ…分かりましたわ」
そう言って冷や汗を垂らしながら目が右へ左へ泳いでしまう。
「そう…そうですわ…こんな事お父様がお許しになられませんもの!」
「勿体ぶってないでお話しなさい!」
机を強く叩く姉に肩を震わせる。
ともすれば机が叩き割られそうな勢い…少なくともテーブルの上の料理達が跳ねたのは気のせいではない筈だ。
「ひっ!?…い、いいいい居るんですわっ!私がお慕い申し上げる方がっ!」
流石に家族皆が驚く。
「お姉様!?」
「おねーさま…?」
下の妹達も例外ではない。
先日15になったアントワーヌに、普段は非常にのんびりしている末の妹サンドリーヌも、大きな目を丸くする。
「それは、何処の誰だ?」
父も立ち上がって問いただす中、ヴァネッサは目を逸らしたまま呟く。
「れ…レクス・アルベイル様ですわ!」
ヴァネッサとしてはそれはある意味嘘ではない。
一夜にして名を上げた優秀な魔術師は、確かに彼女とて強く関心を持った者の一人である。
しかし、半年前にあったという件に関しては全く関係ない。
それは、仮にも貴族の娘として、家族に知られるのに後ろめたさがあったからだろう。


宿の一室のドアの前で、システィルはそのドアを叩こうか迷っていた。
その部屋はレクスの部屋。
ドアに手を近づけると引っ込め…先ほどからそんな行動の繰り返しだった。
(…変わらないわね私。昔からじゃない…迷ったり不安になったりした時、いつもレクスの背に逃げ込んで…)
手を力なく下ろし、中に聞こえないように溜息を漏らす。
すると突然、部屋のドアが開かれた。
流石に大きく肩を跳ねさせたシスティルは、目を丸くして部屋の主と目があってしまう。
「どうした」
「よ…呼んでないわよ!」
「なら何でここにいるんだ…そもそも…」
レクスが気だるげに親指で背後を指すと、そこには人の姿をしたフェンの姿があった。
「もうちょっと素直になりなさいな」
おっとりした口調で言ってのけるフェンだが、早い話が彼女がレクスに知らせたのだろう。
「何でそんな所にいるのよ!」
慌ててフェンを部屋から引き出そうとするが、システィルの手をすり抜けてコロコロ笑い出す。
「いけなかったかしら?あまりにも迷ってたみたいだから呼んであげたんだけどぉ」
「もぉ!!」
再びフェンを取り押さえようと飛び掛る。
そんなシスティルの顔は真っ赤で、大慌てなのは言うまでも無い。
「用件は聞く、少し大人しくしろ」
「え!?…きゃぁぁ!?」
「ふわぁぁ!?」
システィルが振り返ると同時に、更に予想外の方向から衝撃が加わる。
突然宙に現れたラティアが、システィルの真上から落ちてきて二人して折り重なって倒れる事になった。
「イタタタ…はっ!?」
「ら…ラティアちゃん…何…してるの…」
自分の下で半分伸びているシスティルに気付くと、ラティアは慌てて飛び起きる。
「す、すみませんん!!」
システィルはラティアとレクスに起され、一息ついた所で再びラティアが頭を下げてきた。
「ごめんなさい…テレポートの魔法を習って使ってたら…」
「大丈夫よ、でも何でいきなりテレポート魔法なんて…」
その質問を聞いた途端、急にラティアの目が爛々と輝き始め、手をパタパタ振って話し出す。
「だってこの前のだって凄いんですよ!テレポート魔法を咄嗟の回避に使うなんて!」
ラティアの後ろで溜息を漏らすレクスは、さもそれが凄い事とは微塵も思っていないのだろう。
ちなみに彼女が言うのは、あのヘルの左手の放った特大の光芒の回避方法の事である。
テレポート魔法は技術的にそう難しい魔法ではない。
但し、不慣れなうちは移動に時間差が出たり、移動先の場所が若干ズレたりといった斑はある。
レクスが行使したテレポート回避は、あえて時間差を作り、移動元と全く同じ場所に移動する事で成したモノである。
そうする事で技術、消耗共に手間を最小限に抑えつつ、あたかも不死身と錯覚させるような演出も可能にしていたのだ。
「楽しそうでいいわね」
感情の篭っていない、淡々とした声が部屋の隅から聞こえた。
再び驚かされる事になったシスティルは慌てて振り返ると、意外な人物の姿を確認する。
「ライフさん!?一体いつから…」
「最初からよ…レクスに引っ張り込まれて、ラティアの様子を観察しろって…」
4人の視線が一斉にレクスに集まるが、当人は小さく溜息をつくのみ。
そんな中で更に部屋の中に現れる存在があった。
「レクス」
甲冑に身を包んだ青年の姿…レンは扉の向こうに視線を向けた。
「客人のようだ」
レクスを含め、扉に集まる一同の視線は険しい。
レンがわざわざ現れるという事は、少なくとも招かれざる客という事だろう。
「はぁ…その手の人間かしら?じゃあ私隠れておくわ」
早々に自分の姿を散霧させるフェンに続き、要件は済んだとばかりにレンも姿を消す。
「ぁ…!」
静かな緊張が走る部屋の中で、レクスは堂々と扉へと向かうのを見ると、誰とも無く驚きの声を漏らした。
「今日は客人が多いな…」
何の迷いもなく扉を開け放つと、そこにはブレスプレートに小振りのサーベルを腰に携えた男が二人。
「レクス・フォンティーヌ・アルベイル様ですな」
「物々しいな…何か用か」
「一緒に来てもらいたい」
レクスの後ろの3人が一層身を強張らせる。
システィルもライフも、先日の式典の経緯は聞いており、貴族達からどのような仕返しがあるか警戒していた手前、無理もない話ではある。
そして、今レクスはマナが殆ど無い状態である事も。
(さぁレクス。どう動くつもり?)
特にライフは、レクスの動きを眼鏡を光らせながら観察していた。
「いいだろう。少し用意するから外で待っていろ」
それだけ言うと扉を閉めてしまう。
外で男達が暫し騒いでいたが、聞く耳持たないまま暫くのうちに大人しくなる。
「ちょっとレクス!?」
アッサリと了承してしまうレクスの意図が読めず、システィルは殊更慌てる。
だが当のレクスには全く慌てた様子はなく、自分の剣を取りながら呟いた。
「不穏な動きを見せればそれはそれで対応すればいい。今ここで事を荒立てるのも面倒だ」
「大舞台で爵位を蹴ってきた男の言葉とは思えないわね」
溜息を漏らすライフだが、今更だ。
レクスは皆を連れて表に出ると、男達が用意していた馬車へと乗り込むのだった。


おおよそ貴族達に目を付けられ、釘を刺されるかお灸を据えに呼び出したのだろうと思っていたが、その相手は少々意外であった。
国王の懐刀と名高いシャンプティエ公爵家に呼び出されるとは思っていなかった。
「…気の短い懐刀だこと…」
ライフがそうぼやくのも尤もであった。しかし他に心当たりがあったのはレクスとラティアである。
「まさか…昼間の?」
「その関係かもしれんな…」
「「??」」
システィルとライフが頭上にクエスチョンマークを描きながら、早々に進んでいくレクス達を追う。
「此方でございます」
屋敷の使用人に案内されて広い屋敷の中を進んでいく。
システィルの実家も随分な作りであったが、流石公爵と言うべきか、更に輪を掛けて見事な屋敷。
ふと1つの部屋の前で使用人が立ち止まる。
「申し訳ございません。お連れの方は此方の部屋でお待ちください」
顔を見合わせる一同。
本来レクスが呼ばれてきた懸案、この先へ行けるのはレクスだけ…という事なのだろう。
「大丈夫だろう。待ってろ」
「は…はい…」
待機室として案内された部屋に3人が入っていくと、使用人は更に奥の部屋へとレクスを連れて行くのだった。

深い色の木製の大扉のノッカーを叩くと、中から「入れ」と返事が返ってくる。
立派な作りの扉といい、その重い音と共に開かれた室内の作りといい、豪邸の中でも一際見事な作りである。
部屋の中央奥にある机に沿った、大きな背凭れを持つ椅子が回ると、その椅子に座る主が姿を見せる。
やや白いものが混じり始めた金の頭髪を短く整え、立派に蓄えた髭が年相応以上の貫禄を感じさせる。
その見事な装飾が施された衣装に、公爵のみに着用が許されたマント。
他でもない、レクスを呼び出した張本人にして、ソレイラント3大公爵の一人、ラ・シャンプティエ公爵その人である。
「急な呼び出しに応じてもらい感謝する」
なるほど、国王の懐刀と言われるだけあり、その言葉の端々から漏れる厳かで力強い雰囲気は、そこらの三流貴族では到底真似出来るものではない。
「何の用件だ」
対するレクスも大概ではある。
その雰囲気に臆する様子も畏まる態度も見せない。聞こえよく言えば肝が据わった…不貞々々しい態度で本題を促す。
礼儀のれの字も取り繕おうとしない態度に、これから切り出す話題を考えると目頭を押さえたくなる。
「君を見定める必要があったが…やはり平民は平民か…」
「いきなりな挨拶だな」
ラ・シャンプティエ公爵は溜息1つで気持ちを切り替え、本題に入る。
「我が娘が君を慕っておると聞いたのでな…婚姻を許すか否かはともかく、人柄は知っておく必要はある…と思った次第だ」
「そうか…で、評価の程は?」
レクスの態度は終始変わらない。
そんな様子も鋭く見定めながら、ラ・シャンプティエは口を開いた。
「君の実力は先の事件で疑うべくも無い…。怪物や身分等にも全く怯む様子もない肝の据わり様は、ある意味評価に値する」
そして、讃辞を前にしても浮き足立つ事無い冷静さもある…と公爵は思う。
「…しかし、ものの礼儀を知らぬ上に腹の内を易々と読ませてはくれぬ…。政の場で後者は時に強力な武器にもなるが…」
椅子から立ち上がると、机を迂回してレクスの隣にゆっくりと進む。
「結論から言うと…君の人となりは我が娘の婿には出来得ぬ」
「やれやれ…人を呼び出しておいて突然品評会を始める上にダメ出しときたか」
「…君の言わんとする所も分かる。フォーリア侯爵の人となりも存じておるし、君のような平民が育つのも無理は無かろう」
微かに笑みを浮かべる公爵が、自分を真っ直ぐに見るレクスに振り向く。
「フォーリア侯爵は確かに面白い目を持つ御仁だが…貴族の義務とは国と民を守る事を第一とする。故に全体を見渡す為の”君臨”だと私は考える」
「君臨する事に終始してる腐った貴族が多いのはどう弁明する気だ」
「…それ故に自らを律する強い精神を養わねばならないのだが…現状を言われれば反論の余地が無いな」
レクスが知りうる貴族の中で、この公爵は十分良心的な部類である。
貴族と平民という身分の差に囚われている節はあるが、それ以外の先入観に囚われない公平な物の見方が出来、自身で言う強い精神力を備えている優秀な貴族の部類に入るのは間違いない。
そんな事を考えていると、再び扉がノックされる。

時間はほんの僅かに遡る。
「…勢いであんな事言ってしまって…まさか本当にレクス・アルベイルを連れてくるだなんて…」
「どうかなさいましたか?お嬢様」
「な、何でもありませんわ!」
父の部屋に向かっているのは、従者を連れたヴァネッサだった。
確かにレクスに対し興味はあったが、まさか半分出任せで言った言葉がこのような事態に発展するとは、直ぐには思ってもみなかった。
どうしたものかと考えあぐねているうちに、ついに父の部屋の前まで到着してしまう。
ノッカーで扉を叩く従者。
「旦那様、お嬢様を連れて参りました」
「入りなさい」
間髪入れず帰ってくる返事に、なるようになれと腹を決めて扉を開く。
一先ずレクス・アルベイルという人物がどのような人物か確めてからだ。
そう自分に言い聞かせて部屋に入り…。
「何だ、やっぱりお前か」
「な!!?」
それは他でもない。昼間ぶつかった相手だった。
「ヴァネッサ、確かにこの男は見るべき所も多い。が婿として迎えるにはそぐわない…まだヴェレッツェ伯爵の方が…」
だがそれも嫌だった。
ではどちらを取るのか…。
無能な木偶の坊と評するヴェレッツェ伯爵か。
狼藉者の英雄平民か。
「お、お父様!!!」
咄嗟にレクスの腕に両腕を絡めるヴァネッサ。
「私はレクス様以外の殿方を認める気はありませんわっ!こんなにも愛し合って…」
「ないな」
一瞬で石化してヒビが入る。
話を合わせるどころか一刀両断の元に崩されてしまった。
「全く、どういう育て方をしたらこうなるんだか」
「…返す言葉も無いな。ヴァネッサ、これはどういう事かな?」
「こ…これは…」
言い淀んでしまい、それ以上の言葉が続かない。
地を這うように視線が泳ぐばかりだ。
「…申し訳ありませんお父様」
「謝る相手がもう一人いるだろう?」
「ッ!!」
更に言葉に詰まる。いや、絶句してしまう。
何故驚くのか、公爵は勿論、レクスも見抜いていた。
要は平民に頭を下げる事に抵抗があるのだろう。
「…もう良い、下がりなさい」
厳しい口調でヴァネッサに言い渡すと、それ以上ヴァネッサは何も言い返せず、引き下がるしかなかった。
再び室内は公爵とレクスの二人になった。
「娘には甘いな」
「そう思うか?」
「問い詰めようと思えばできただろう」
あれほどの貫禄を見せていた公爵が困惑の仕草を見せる。
切り揃えられた髭を弄り、微かに視線を泳がせた後再びレクスを見やる。
「…あの子から切り出して来てこそ、あの子の言葉だと思うておるが…確かに少々甘やかしておるかもしれん」
「俺を候補から切り捨てたのも…秘めた欲深い野心を持つ男を警戒して…といった所だろう」
「フフ…」
当たりか…と呟く。
別段この家の力でどうこうしようという考えなど毛頭ないレクスだが、腹の内が読めない相手はまず警戒されて然る相手に違いない。
態度こそ厳しいものの、その根底にある部分は随分な親バカぶりが垣間見えると睨んだ。
そして、そういったレクスの質問から…そして会ってからの仕草を察するに、今回の事には全く感知せずを決め込んでいると見た公爵もまた警戒を解くのだった。
「娘が迷惑をかけたな…謝罪というのも何だが、良ければ連れの者と共に泊まって行きなさい。そこらの宿より良い持て成しを約束しよう」
「良いのか?」
「元より、陛下が格別贔屓にしておられる男だ。これ以上疑うのは陛下に対しても失礼というもの」
苦笑いを浮かべながら、「娘の事はそれはそれ」と補足する公爵。
…思った以上に親バカの根は深そうだ。

どっと疲れが押し寄せたように、ヴァネッサは自室のベッドに倒れこんでしまう。
行き当たりばったりな誤魔化し方ばかりだったのは自分も自覚はあった。
そもそも何故誤魔化す必要があったのか…
「…」
家族達は、半年前の何かが自分を変えた…という所までは見抜いている。
「…言えるわけありませんわ…」
盛大な溜息をついてベッドの上で丸くなっていると、扉がノックされる。
「ヴァネッサ、ちょっと宜しいかしら?」
その声は母オーレリーのものだ。
静かに開かれる扉の向こうから入ってくる母は、いつもと変わらない落ち着いた柔らかい物腰である。
「お母様…」
ヴァネッサのすぐ傍まで寄り、ベッドに腰をかける。
昔からそうだった。
思い悩んでいたり、落ち込んでいたりすると、静かに傍に寄り添って、そして…
今のようにそっと頭を撫でてくれる。
「またお父様に叱られちゃったかしら?」
軽く俯き、押し黙ってしまう。
それが静かに肯定を示している事を、母はよく知っていた。
「お父様はね…貴女の言葉で、貴女の本音が聞きたいの…例えそれが、貴族としてあるまじき事でも…ね」
「!!」
知っている。
半年前のあの日、何があったのかを…。
咄嗟に母の顔を見上げるヴァネッサだが、優しく微笑みかけるその表情、その口元に人差し指を立てる仕草を見せる。
その秘密を、誰にも語っていないと暗に語っている。
「言えるわけありませんわ…」
あんな事を言えば、父が「貴族として何たる事か!」と怒り狂う姿が容易に想像できる。
「クス…そうねぇ…」
何を想像しているのか、やはり母も見抜いているのだろう。
「でも…ね…本当に進みたい道なら、親に叱られるくらいのコトで揺らいでちゃダメよ…?」

よもやまさか公爵邸に泊まる事になるとは思わず、ラティアを始め皆唖然としていた。
公爵の使いによって昼間の馬車の件の交渉が成され、明日の昼に馬車が公爵邸に訪れる運びになったという。
「警戒しながら付いて来てみれば…」
レクスの話に盛大に溜息を漏らすシスティル。
「良いさ…俺が泊まる宿ならコレくらいは無いとな」
ベッドで大の字になって横になっているレクスの顔面に、突然四角い物体が激突する。
その表紙にはBIBLEという文字と十字架のレリーフがあしらわれた…。
「…おい、いきなり聖書投げるなよ」
「レクスこそもう少し常識を持ってよ…!」
「俺が常識外れなら、この世界の大部分は変態集団だ」
「アナタが言わないでよバカ!!」
気疲れを象徴するように大きく溜息をつくシスティルを他所に、レクスが更に口を開く。
「そういえばライフはどうした?」
「あ、さっきお風呂に行って来るって…」

既に入浴を済ませたライフが、呆れるような広さを持つ屋敷の廊下を歩いていた。
軽く湿り気の残る髪を大きなタオルで乾かしながら歩いていると、その耳に何かが聞こえてきた。
「…何かしら…?」
音源を辿って行く。
そのうち、その音ははっきりとした音色として聞き取れるようになってきた。

ヴァネッサは母が部屋から去った後、バイオリンを手にしていた。
そのバイオリンから奏でられる音色は見事なもので、気高く力強い旋律がヴァネッサの部屋に響き渡る。
弓を握る手が、弦を操る指が、その曲に一心不乱に向き合うように激しく動く。
(この世界の…この国の…貴族のあり方は本当に正しいんですの…?)
ヴァネッサが今向き合っているのは、その曲に込められた想いに他ならなかった。
思考はその想いに向き合う事のみに傾注している状態で、今の彼女に周囲は見えていない。
だからこそ、声を掛けられるまで来客があった事に気付かなかった。
「熱心なものね…音楽家にでもなるつもり?」
背後から声が聞こえて驚き、バイオリンの旋律が止まり振り返る。
ライフが部屋の入り口に立っているのに漸く気付いた。
「な、何ですの!?用があるならノックくらいするのがマナーでしてよ!」
「別に用という用は無いわ…立ち聞きしに来ただけ」
「ハァ!?」
ヴァネッサの素っ頓狂な反応も気にせず、ライフは淡々と語り続けた。
「…クライン・ヴェルスター作曲『新世界』…新しい世界の形を模索する人達を称える曲だったかしら…」
その曲を…そして作曲者に関する知識を探りながら、無表情のまま眼鏡を光らせる。
「クライン・ヴェルスター…今から約120年前の時代を生きた作曲家…そして国への謀反を働き、32歳にして処刑された愚かな反逆者…」
突然机を叩く音にライフの講釈が中断させられる。
バイオリンの弓を机に叩き付けるようにして同時に机を叩いたヴァネッサのものだった。
「聞き捨てなりませんわね…!国の姿を憂いて立ち上がった憂国の志士であり偉大な作曲家ですわ!事実彼の曲も志も受け継がれ、当時の貴族たちに制度改革を止むをえなくさせた原動力に違いありませんもの」
声を荒げるヴァネッサを軽く鼻で笑うライフ。
その笑みは何を含んでいるのか…或いはライフ自身も本当は気付いていた。
「…おかしな話ね…平民の私が彼を嘲り、貴族の貴女が彼を称える…」
「ワケが分かりませんわ…錬金術師が考える事なんて…」
「真理学者よ…訂正しなさい。それと…」
踵を返して部屋を後にしようとするライフが、去り際に更に呟く。
「バイオリン弾いてるだけじゃ、世界は何も変わりやしないわ…」
「っ!!」
事実だった。
ここでただ想いを頭の中で捏ね回した所で、世界が変わるわけじゃない。
そもそも自分は何を目指しているのだろうか…。
そんな考えが頭の中を巡り、遂に何も言い返せぬままライフの背中を見送るのだった。

「貴方も立ち聞き?失礼よ?」
部屋を出て間も無くの事。
ライフの足が止まると、目の前にレクスの姿があった。
「お前が言えた事か?」
「…確かにね」
レクスの脇を通り過ぎようと再び歩き始めた。
しかし、その肩がすれ違った頃だろうか。
今度はレクスが口を開いた。
「…荒れてるな」
「…」
「そんなに世界が憎いか」
ライフの態度は、どこか世界に絶望している様に見えたのも確かだった。
「…私に何が残ってるのよ…。貴方みたいに魔法が使えるわけでもない…友達に裏切られ続けてバカにされ続けて…唯一無二の妹まで奪われて…何に希望を持てって言うのよ…!」
淡々とした喋りが特徴のライフの語尾が震えていた。
恐らくその言葉がライフの中に渦巻く絶望の一端なのだろう。
「…死して尚、その真価が問われ続ける人間さえいる。今を生きる人間が、死者の尊厳を背負う人間が、何故悲観する必要がある…」
思わず振り返り、レクスを睨み付けるライフ。
「…フィルの言葉だがな」
対するレクスはゆっくり振り向き、ライフの強い視線に何ら怯むことなく真っ直ぐ腹の内まで見通すように見つめ返した。
「…そういえばさっきのクライン・ヴェルスターは、拷問の末鼓膜を破られて聴力を失いながらも、あの新世界という曲を書いたんだったな」
「だから…何なのよ!!」
ライフは思わず、手近なものを掴みレクスに投げつけた。
硬いものがレクスの顔面を叩く、見事なまでの乾いた音が返ってくる。
レクスの様子を確認する事も無く、ライフはそのまま駆け出すのだった。
「っ…やれやれ…今日は色々なものが飛んで…来るな」
遅れて顔面から落ちてくる物体を手で受け止める。
ぶつかった鼻の頭が赤く腫れ、痛みに顔をしかめるも、手の中のその物体を確認する。
それはライフのフレイゴーレムが封じられたゴーレムオーブだった。

シャンプティエ邸を飛び出したライフ。
いい加減人通りも疎らになった通りは、街並みの窓から零れ出す明かりと月明かりが彩る。
街を歩き回るライフの足取りは重い。
単に走り疲れたからではないが、今更足取りがどうこうと気に掛ける事すらない。
遂には店仕舞いした一軒の店の入り口の階段に腰を下ろすのだった。
「あの俺様バカに言われる筋合いなんて…望めば何でも手に入るようなあのバカに…何が分かるの…」
呪うような言葉を漏らす口調すら力ない。
「…何よ…」
つい先ほど、リーフを死に追い遣った輩を地の果てまででも探し出して追い詰め、復讐する事を誓ったばかりの心。
何故今こんなにも気持ちが沈んでしまうのだろうか…。
勿論、リーフは二人と居ない姉妹。
同じ境遇、同じ悩み、同じ考え方を持つ、この上ない理解者であり分身同然だった。
失った悲しみも悔しさも、理屈で押さえ込めるような浅い物ではない。
陥れた者を許せる筈がない。
それでも心に押し寄せる、この虚しさと脱力感は何なのだろうか…。
「失礼、君の連れに用事があるのだけど…」
聞き慣れない男の声が飛び込んできた。
人が近付いていた事に何故気付かなかったのか。
顔を上げるリーフのその視界は揺らぎ、頬に筋状の違和感が走る。
何時の間に泣いていたのだろうか。
いや、そんな事よりも…。
「…何よ」
元々交友関係は殆ど無い。
いきなり連れの事について口を挟まれる事に嫌なものを感じた。
そしてその嫌な予感は、直後確信に変わるのだった。
喉元に突きつけられた、銀色に輝く鋭いものが…嫌に冷たい感触が顎に触れる。
「一緒に来てもらえるね…?」


月はすっかり西に沈み、遂には一日の始まりを知らせる輝きが東の空に昇り始める。
その澄んだ光を窓からいっぱいに取り入れる部屋に、突如として飛び込む者がいた。
「レクス!!」
何時に無く慌てて飛び込んできたのはシスティルだった。
ノックすらする暇もなく扉を開けて入ってくるシスティルの表情は見るからに尋常ではない慌てぶりだった。
「落ち付け」
「暢気な事…って!?」
そこはレクスが宿泊していた部屋なのだが…何故かまたフェンの姿がある。ラティア…らしき人物もいる。
らしきというのも、何せ頭が大変な事になっているのだ。
普段から癖のある髪ではあるが、あらぬ方向に跳ね上がりとぐろを巻く、その寝癖たるや半端ではない。
「私ですよっ!ってシスティルさん、ライフさんの行方知りません?昨日からずっと部屋にもいないみたいで…」
「その事で来たのよ…!」
慌ててレクス達の傍に詰め寄るシスティルは、一呼吸置いて話を続けた。
「攫われたのよ!コレがついさっき届いたの!」
突き出すように渡された一枚の便箋を広げるレクス。
”迷子になっていた錬金術師ライフ嬢を保護した旨を伝えます。レクス・アルベイル氏及びシスティル・フェリア・ヴィーシャル・ド・フォーリア女史に至急ラーディ広場までお越し願いたい。”
差出人は不明。
穏便な文面ではあるが、どうにもきな臭さが残る。
「…やれやれ…」
「…変わらないのね…この手の人間って」
軽く溜息を漏らすレクスとフェン。
ラティアはどこが犯行声明なのか首をかしげている。
そんなラティアに手紙を押し付けると、外出の支度を始めるレクス。
「お迎えに行くんですか?」
ラティアが反射的に問うが、その言葉通りの意味で言うラティアに対し、システィルも穏やかではない意味でその答えに耳を傾ける。
「買出しだ…昼には迎えが来るんだろう?」
「ちょ…っ!?」
「え?」
全く予想だにしない返答に、絶句するより他の反応が出来ない。
「ま…待ってよレク…!」
部屋を後にするレクスを呼び止めようとするが、アッサリと扉を閉められてしまう。
「っ…!もおおっ!!ワケ分かんないわよ!!」
やり場のない憤慨を叫ぶ形で表すがどうにも収まらない。
「…素直じゃないわね」
「何の話よ!?」
苦笑しながら漏らすフェンの言葉にも、盛大に突っ込まずには居られなかった。
「クスッ…私、幼馴染の貴女より、レクスくんの事分かっちゃったかしら〜?」
「な…!!」
システィルの顔が引き攣って硬直してしまう。
そのまま数秒硬直していると、突然火山噴火のように盛大な蒸気が頭から噴出して…。
「もういいわよっ!!私が行くから!!」
フェンは勿論、状況があまりよく分かっていないラティアまで纏めて吹き飛ばされそうな、金切り音のような叫びを上げて部屋から出て行く。
「ふぅ…もうちょっと信じてあげたって良いのにね…」
「はぇぁ〜〜…」
悲しいかな、同意を求める相手はあまりに強烈な音量のために、頭の上でヒヨコが散歩中だった。


ラーディ広場は中央に噴水を構える、王都の人々の憩いの場。
よもやまさか、そのような物騒な”待ち合わせ”が行われているとは露とも思わない人々が行き交う日常の光景だった。
不機嫌な表情を隠そうともせずに佇むライフに寄り添うように、一人の長身の男が立っていた。
「いい加減、その物騒なものしまってもらえる?」
「はて、何のことですかな?」
膝まで届くほどのマントを身に着けているこの男、そのマントの下からライフにナイフを突きつけたままなのだ。
「さて、彼には来て貰わないと困るわけだがねぇ」
「どうかしら…」
「尤も…もう一人は来たようだけど」
男の視線をライフが追うと、そこには知った者が一人居た。
強張った表情をしたシスティルがたった一人で向かってきている。
「…何であなたが…」
確かに呼び出された二人のうちの一人。
来てもおかしくはない人物だが、まさか一人で来るとは少々意外だった。

広場に隣接する建物の壁に隠れる人陰があった。
この騒ぎを聞きつけたヴァネッサである。
従者がいない辺り、また適当に撒いてきたのだろう。
誘拐犯の男やシスティルらに気付かれぬ距離を保ちつつ、その様子を伺い始めた。

「ほぉ…もう一人の方はどうしたのかなァ?」
その質問にシスティルの顔が険しくなる。
遂には軽く目を逸らしてしまい…
「その…あまりに自由過ぎて」
「…やっぱり…」
システィルとライフの溜息が否応ナシに重なるのは恐らく偶然ではないだろう。
「彼方が誰の差し金かは存じませんが、目的は私の力と妖精なのでしょう?」
再びライフを盾に取る男に視線を向ける。
「お察しの通りで…」
恐らくこの男、傭兵の類だろう。
腕の程を推し量る材料は無い。
そもそもシスティルが敵う相手だとは思っていない。
そして実力以外にも…。
「わざわざバカ貴族のエサになりに来るなんて、あなたも救いようのないバカね」
ライフの蔑むような文句を前にして、どこか困ったような…悲しげな笑みで返す。
「あの時、私がもっと強引にでも貴女達を引き止めていれば、こうならずに済んだかもしれない…」
傭兵の男に向けて歩を進めながら、つい先日の惨事の前触れの事を思い出す。
「貴女達の事、もっと理解しようとしていれば、変わっていた筈…」
「何と言われても、もう戻らないわ」
「そう…だからコレは、私のせめてもの報い」
ついには傭兵の男が、手を伸ばせば肩に触れられそうな距離にまで近付いた。
「…せめて、ライフさんは放して頂けませんか?」
「聞き分けのいいレディだ…もう一人も聞き分けがいいなら、これだけ楽な仕事は無いんだが…ねぇ」
目を逸らして無言になってしまうシスティルとライフ。
そんな様子から、もう一人は大なり小なり手間取りそうだと悟る。
「クク…聞き分けのいいレディに免じて、この錬金術師は解放してあげよう…是非とももう一人を呼んできてもらいたいものだ」
「ソレが本音なんでしょ…」
ニヤリと口元を歪める傭兵の男に強い不快感を覚える。
いけ好かないが、今の自分に他に何が出来るのか…。
形はどうあれ、結局あの俺様バカに泣きつくしかないのだ。

「あ…あの田舎貴族…!誘拐にああもアッサリ屈するなんて何考えてるんですの…!」
思わず地団太を踏みそうになるのを耐えるヴァネッサ。
如何せん今ヴァネッサが飛び出しても、余計話がややこしくなるだけだ。
多少は時間稼ぎしてくれるものと見ていたが、どうもそれも叶うのは困難な雲行きになってきた。

「ライフさん」
男から数歩離れた所でシスティルに呼び止められる。
「レクスに伝えておいて…『ごめんなさい』って…」
どちらも振り向かない。
ただ、システィルの語尾が微かに震えているのは、彼女が今どのような心境でその言葉を搾り出したのか、多少は推し量る事ができた。
「ンごっ!?」
「何に対して謝ってるのか知らんが、さっさと帰って準備しろ…何を油売ってるんだ」
突然傭兵の男から奇妙な短い悲鳴が聞こえた。
そしてその悲鳴に重なるように、この場に居ないはずの、聞き覚えのある声も…。
システィルは目尻に涙を浮かべたまま、ライフも慌てて振り返り、目を丸くする。
傭兵の男の頭を思い切り横に張り倒しながら退かせ、続けてシスティルを振り返らせると強く背中を押す者がいた。
「ちょっとレクス!?」
麻袋を担ぎながら現れたのは間違いなくレクスだ。
「ライフ、お前もだ」
ライフもまたレクスに背中を押される。
「?」
背中を押される直前、レクスが何かをライフの手に転がして来たのを咄嗟に受け止めながら…。
「クッ…なるほど、あなたがレクス・アルベイル…」
ようやく頭を起して話しかけるが、レクスは立ち止まる様子も無く呟く。
「ああ、ライフの保護には感謝する…今はあまり時間が無いんで失礼するぞ」
そのまま進むレクスだが、突然その足が止まる。
「まだ何か用か?」
漸く振り返ると、男はライフルを持ち出し、その銃口をレクスに向けていた。
この世界にも銃火器は存在するが、やはりまだ腕利きの工芸師が手作りで生産される程度の普及率。
火器類の中でも、ライフルほどに小型化されたものは滅多に見れる品ではない。
傭兵の男は余裕の笑みを崩す事はない。
しかしその心中まで一緒ではなかった。
(不意打ちを食らうまで存在に気付かなかった…?一体どれほど戦士としての訓練を積んでるんだ…この男)
突然物騒な品が出てきた事で、周囲の人々が騒然とし、一定の距離を取ってしまう。
「傭兵にしては随分と慌てたな」
「…」
ついには笑みも消えてしまう。
そして…そんなレクスと男の間に割って入ったのは、意外にもライフだった。
「そういえば、一晩振り回してくれたお礼がまだだったわね…」
そう言いながら取り出したのは、立った今レクスに渡されたもの…。
迂闊にもレクスに投げつけたままだったゴーレムオーブだった。
「銃を取ったって事は、反撃したって問題ないって事よね…サモン・ゴーレム」
ライフと男の間に更に割って入ったのは、ゴーレムオーブから現れたフレイゴーレム。
流石にそれを目にした以上、早々に男はその場から走り去るのだった。
「クッ…穏便に済むかと期待はしたが…やはりアレを使うしか…っ」
果たして聞こえるか聞こえないかも分からない捨て台詞を残しながら男が去る。
「まだ不貞腐れてるようだな」
最早何の事だと問うのも愚問。
「心外ね…ただ、”聖女様”の同情を買ったり、ゴーレムオーブを手放してたり…私自身が不覚だらけなのは認めるわ」
あまりの開き直りぶりに、さすがのレクスも溜息を漏らす。
「不貞腐れて、姉妹揃って世界に背を向けた…片割れを失ったのはその報いだろうな」
ライフが拳を強く握り締めるのを知ってか知らずか、レクスは更に続ける。
「尤も世界にも流れというものはある。魔法を使う事無く身を立てるなど、容易ではないのも事実…」
何を考えたか、ライフはそのままフレイゴーレムに乗り込む。
すると、男が去っていった方向ではなく、レクスに向き直るのだった。
「ライフさん…何を…」
システィルのセリフをレクスが腕を張って遮り、下がるよう促す。
「アナタに…何が分かるのよ…!」
18メルタにもなる鋼の巨人が見下ろしてくる。
しかしそれでも、レクスは全く怯む様子が無い。
「何が分かる…か…。分かって欲しかったのか?」
「!!」
押し黙るフレイゴーレム。
あまりに予想外の答えに、どう答えて良いのか分からず、一瞬操縦の手が止まってしまったのだ。
しかし漸く彼女の心が出した答えは…。
「そうやって…見下さないでよ!!」
巨大なナックルを装備した左腕を振り上げたフレイゴーレムは、レクス目掛けて思い切りその拳を振り下ろす。
「あなたなんか!!」
「レクス!!」
システィルの絶叫も、フレイゴーレムの豪腕が地面を叩く音に掻き消されてしまう。
その巨大な手甲が地面を穿つと、派手に土埃が舞い上がる。
その土埃の中にレクスの姿が消えるのを目の当たりにしたシスティルの膝が砕けてその場にへたり込んで…。
「ね…ねぇ…冗談よ…ね…?」
周囲の人々も騒然となり、中には逃げ出す者も居た。

最早身を隠すのも忘れたヴァネッサも、予想外の展開に呆然としていたのだった。
「な…何で…仲間割れしてるんですの…?」
その問いに答える者は居ない。

「…なんで…避けなかったのよ…」
フレイゴーレムの周囲に小石や土くれが舞い落ちる音が嫌に鮮明に聞こえる中、不意にフレイゴーレムの中からライフが呟いた。
土埃が晴れると、フレイゴーレムの手甲からそれこそ人間サイズで拳1つ程の紙一重の位置にレクスは立っていた。
レクスが動いたのではない。寸前でライフが拳の位置を逸らしたのだった。
レクスは相も変らぬ表情でフレイゴーレムを見上げながら、その口を開く。
「俺は世界の流れに流される凡人とは違う。世界がお前となかなか向き合わないなら…」
漸く歩き始めたレクスは、地面を穿つゴーレムの腕を迂回し、ゴーレム本体と距離を詰める位置に立つ。
「世界に先んじて俺がお前と向き合ってやる…だから避ける理由は無い」
その言葉を聞き、フレイゴーレムが微動だにしない。
システィルはその場にへたり込んだまま、つい先ほどの絶望感から一気に呆れ返ってしまう。
避けない理由としてはあまりにデタラメすぎる。
「もぉ…いつもいつも、何考えてるのよ…」
どっと疲れが押し寄せるシスティル。

一方で、影から見ていたヴァネッサは、レクスのそんな態度に見入っていた。
「世界と向き合う…世界と…」
レクスの言葉に何か思う所があったのだろうか、そんな言葉を繰り返し呟き始めるのだった。

フレイゴーレムは動かない。
それもその筈だった。
ライフは今、操作用のオーブに手を置いていない。
ただ、どうしようもなく零れてくる涙を拭うのが精一杯だったのだ。
「遅い…わ…っっ」
涙でくしゃくしゃになった顔のまま、既に亡き片割れを仰ぎ見るように空を見上げる。
(その言葉…リーフと一緒に…聞きたかったのに…っ)
拳を地面に突き立てたまま…或いは項垂れているようにも見えるフレイゴーレムを中心に、静かに時間が流れる。
それは、実際にはほんの数分にも満たない時間だったかもしれない。
その静かな時間を破ったのは、先ほどの傭兵の男が去っていった方角から響く地響き。
「…やれやれ、銃で脅しが効かなければゴーレムか…」
今更確認するまでもない。
全身を鉄板で隙間無く覆ったアイアンゴーレムが5体、広場に戻ってきたのだ。
「まさか広場にまだ居るとは、少々予想外でしたよ」
先頭にいるアイアンゴーレムが先ほどの男だろう、そのゴーレムの腕がレクスとシスティルを指差す。
「あの2人だ。傍のゴーレムは好きにして構わんぞ」
一斉に歩み寄ってくるゴーレム達。
システィルは今のライフとのやりとりで腰が抜けて動けない様子。
引けない理由にそれもあるが、レクスはといえば寧ろ腰から剣を引き抜く。
最初からこの連中を相手に引くという選択肢が無いのだろう。
「ナメられたものだな…」
レクスもゴーレム達に向かって行こうとした矢先の事だった。
フレイゴーレムの右手が遮る。
少々怪訝に思ったのだろうか、フレイゴーレムの顔を見上げると、フレイゴーレムの視線はアイアンゴーレム達を見据えていた。
「どうせ魔法もロクに使えないんでしょ…あのくらい私が何とかするわ」
立ち上がるフレイゴーレムが、巨大な右腕を振り上げる。
「全てに希望を示すなんて豪語したおバカな太陽が西の空で寝てる間…」
その振り上げた巨大な腕を、アイアンゴーレム達に向けて…。
「私が冷めた世界を見張る星になってやるんだから…」
そう豪語するライフに、思わず笑みがこぼれるレクス。
「フッ…精々星屑で終わらないよう頑張れよ」
「あなたこそ…輝きで星に劣らないよう気をつける事ね…」
憎まれ口を叩き合ってる間に、アイアンゴーレムのうちの1体が正面から突っ込んで来た。
棍棒のような腕を大きくスイングさせて、今にも殴りかかろうとしている。
「正面から突っ込む…タフで動きの鈍いゴーレムの運用法として間違ってはないわね…でも」
その大きく振り被った腕が、フレイゴーレムの頭を直撃した。
如何にゴーレムといえど、棍棒のような巨大な腕で頭を叩かれては、確かに弱い。
しかし、拉げたのは逆にアイアンゴーレムの腕の方だった。
「もう少し相手のスペックも考慮しなさい」
拉げた腕から凄まじい勢いで炎が燃え上がり始める。
そんなアイアンゴーレムの変化も気にせず、その腹に左腕を思い切り捻じ込むフレイゴーレム。
「ご…ゴーレムの中にデッドリーマナ!?」
「やはりか」
システィルの傍でレクスはそのゴーレム達の様子を険しい表情で見ていた。
これは魔族が行っている運用方法だが、セレネスマナとデッドリーマナを併用する事で、より強力な魔法を扱える。
これを応用し、ゴーレム内部で性能強化にデッドリーマナを循環させれば、確かにゴーレムの性能向上を期待できる作りになる。
太陽の光に含まれるアポロスマナに干渉しないよう、全身を厚い鉄板で覆ってしまえば、陽光の下でも運用はある程度可能になる。
「但し…欠点は、僅かな鉄板の隙間が出来てしまえば、デッドリーマナがアポロスマナに晒されて燃えてしまう…ゴーレムの特徴である打たれ強さを著しく損なう点ね…」
燃えて崩れていくゴーレムを振り払いながら、残りの4体のアイアンゴーレムを見据える。
恐らくこのゴーレム達は、まだ本領を発揮していない。
「バレちゃしょうがないね…デッドリーマナ、フルドライブ!」
突然アイアンゴーレム達の雰囲気が変わった。
文字通り雰囲気…というのもあるが、身を低く構え、無骨なボディにも拘らず、さながら二足歩行の獣を思わせる姿勢。
そしてその4体のゴーレムが大地を蹴る。
「え…うっ!?」
呆気に取られるライフ。
何せ大地を蹴った瞬間、消えたようにすら見えた。
圧倒的な加速と、その直後に加わる衝撃。
咄嗟にマナブースターを噴かせて上空に飛び上がる。
「ニゲタツモリカ!」
操者の声まで歪に聞こえるようになったゴーレムが姿を消す。
代わりに、凄まじい衝撃が加わった足跡を広場に残して…。
「グッ…予想以上のジャンプ力ね…この高さでも襲いかかれるなんて…」
少なくとも王城の最上階並みの高さにまで飛翔している筈。
しかし、高く跳ねたゴーレム達が次々に殴りつける衝撃が止む事はない。
そして劇的変化したのは機動性だけではない。
頭を殴りつけた筈の腕が歪んでいた…即ちフレイゴーレムの装甲に、攻撃力が劣っていた筈のソレ。
今では逆に、フレイゴーレムの装甲に傷をつけている。
「このままじゃ…レクス!」
システィルが焦りの色を含んだ声と表情でレクスを見る。
同じくフレイゴーレムの戦況を無表情で見ていたレクスだが…
「…読めたか?」
「ええ…」
レクスとライフの間で交わされる会話は、緊張感の抑揚も無い淡々としたもの。
そんな会話の直後、飛び上がってきたゴーレムめがけて、今度はフレイゴーレムが一直線に急加速する。
「ナ!?」
ゴーレムがそれ以上のセリフを口にする事はなかった。
次の瞬間にはフレイゴーレムが地上に着地しており、腕の手甲を振り払っていた。
「尤も読むまでもなかったわね…ゴーレムの機動性に依存してるだけだし」
「フザケル…!」
何時の間にかゴーレムが凄まじい足運びでフレイゴーレムの背後に飛び込んでいた。
が、これもゴーレムの腕がフレイゴーレムを捉える直前、フレイゴーレムが振り返りざまに振り払った手甲に思い切り横殴りにされて吹き飛ぶ。
上空から落ちてきた、頭部を失ったゴーレムと、横殴りにされて吹き飛んだゴーレムが派手に燃え上がったのは、ほぼ同時の事だった。
「モラッタァァ!!」
寸分置かずに頭上から次のゴーレムが迫ってくる。
このアイアンゴーレムならいざ知らず、通常のゴーレムではこのタイミングで対応するのは酷だと踏んだのだろう。
そして実際フレイゴーレムも、機動性自体は他のゴーレムとそこまで変わるものではない。
ならばフレイゴーレムに出来る事は、その一撃をやり過ごしつつ動きを見切り、次に備える事。
だからこそライフは、慌てずそのゴーレムを視界内に捉える。
だが…。
「そぉぉおおら!!初球打ちぃぃぃ!!!」
金属が派手に拉げる轟音と共に、巨大な塊がライフの視界を横切った。
その塊は寸法だけでも小型のゴーレム級はある。
その突如乱入した塊に横殴りされ、原型を留めないほど拉げながら、ゴーレムが昼の空の星になるくらい吹き飛ばされてしまう。
光って見えたのは…恐らくデッドリーマナが燃えた現象なのだろう…と一応理解しておこう。
「…呼んでないわよ?」
その塊を振り回した人物に向き直る。
そこに立っていたのは、王都に入って別れた筈の巨人族、バジルだった。
「冷てぇなぁ助けてやったのによ」
などと言いながら、巨大な腕でフレイゴーレムの背中をバシバシ叩きながら豪快に笑う。
「まぁ色々突っ込みたい事はあるけど…先ずは」
最後に残ったゴーレムを見据えるフレイゴーレムとバジル。
既に勢いは完全に掴んでいる。
逆に見切られて以降、瞬く間に一方的に撃墜され続けたゴーレムは最後の1体。
「マ…マテ!」
突然最後のゴーレムから嫌な雰囲気が消え、中から傭兵の男が姿を見せる。
最初に見せていた不敵な態度は見る影も無く、情けないへっぴり腰で両手を挙げて出てきた。
「こ…降参!降参!」
「…案外潔い…というべきかしらね」
「へっ!どうだい!俺が来て震え上がっちまったか!」
軽く溜息を漏らすライフと、無駄に鼻を高くするバジル。
そんな反応を前に震え上がっていた傭兵の男だったが、突然目を見開くと、ゴーレムの操縦席の入り口で倒れてしまう。
「ん?」
「!!」
男が倒れた事で、突然その視線を鋭くしたレクスがあらぬ方向に視線を向けた。
一体何が起こったのか理解の範疇を超えていたバジルが、そんなレクスの反応を怪訝に思う。
「一体どうしたんだ?」
「長距離魔法狙撃…あの男の心臓を打ち抜いたな…」
「はぁ?」
慌てて倒れた男の体を見てみる。
その胸に確かに風穴が開いており、男当人も何が起こったのか分からないような驚愕の表情のまま息を引き取っていた。
更には、まだ無傷だった筈のゴーレムが突然激しく燃え始める。
どこかの装甲に隙間でも”作った”のだろう。
「そんなまさか…」
ライフもレクスの視線を追う。
しかしその先をどこまで辿っても、人影1つ見当たらない。
「…口封じか」
レクスが小さく漏らす溜息は、既に狙撃者が去っている事を物語っていた。


ヴァネッサは父の部屋にいた。
レクスの言葉を盗み聞きとはいえ耳にし、愈々先ずは父と向き合う事を決心したのである。
半年前に自分が何をしていたのか。
それを通してどう思ったのか。
これから自分が何をしたいのか。
それらを全て父に打ち明けたのだった。
「…そうか…」
暫しの沈黙。
ヴァネッサからは父の背しか見えず、その表情が全く読めない。
「私はもっと世界を見て回りたいんですわ!本当に良い国として支えたいならば、先ずは数多とある人々の価値観、幸せの姿を知る必要がありますもの…」
「…」
父は再び押し黙ってしまう。
「でなければ、この国のあるべき姿が見えませんわ…私はそれを成したいのです」
父が静かに顔を上げ、天井に視線を泳がせる。
「…立派に育ったな…」
「え…?」
小さな呟きはヴァネッサには届き切る事はなかった。否、それでいいとも、父は思った。
「…彼らについて行く事は許可出来ぬ」
漸く振り返った父は、やや厳しい口調で言いつける。
「っ!」
唇を噛むヴァネッサ。
怒鳴られる事は無かったのが意外ではあるが、肝心な所で抑えられてしまった。
父は中々に頑固な相手。一度結論を出されると、覆った試しがない。
「…分かり…ました…」
力なく父の部屋を後にするヴァネッサ。
しかし父も知っていた。
あの娘は、父の言いつけをろくに守った事が無い事を。


公爵邸の前で、レクスは国王が発行した文書を読んでいた。
「…あのバカ王…」
「せ…先生、仮にも王様をバカ呼ばわりは…」
ラティアも引き攣った顔で返すが、その程度でレクスの態度が変わる筈も無い。
「バカ王で十分だ…頼んでもいない護衛にあの暑苦しい巨人を遣すんだからな」
「おいおい、俺を護衛に雇えるんだから大船に乗ったつもりでいな!ダッハッハッ!!」
「暑苦しいのは勘弁願いたいな」
まぁそういう事である。
レクスと一緒に王都を訪れた経緯は勿論だが、王都の入り組んだ地形での復旧工事に巨人族は向いていない事から、バジルにレクスの護衛として国王の白羽の矢が立ったというワケである。
「レクス」
文書をバジルに突き返しながら声がした方を見れば、ライフが支度を整えて出てきていた。
否、どうもそれだけではない。
「何だ?」
問い返すレクスに、言葉よりも先に手に持っていた大きな布を突き出して寄越して来る。
「コレはあなたが身に着けてた方が役に立つでしょ…」
コレと言われても見当がつかない。
そんなレクスの様子を知ってか、説明まで付けてくる。
「このマント、周囲のマナを引き寄せて、身に付けている人物の周囲だけマナの濃度を高める薬品がしっかり染み込ませてあるわ。昔私達が何とか魔法使えないか試行錯誤してた頃のだけど…ね」
「ほう…どういう風の吹き回しだ」
渡す物だけ渡すと、さっさと馬車に向かうようにレクスの脇を通り過ぎながら…。
「…気まぐれよ」
淡々とした言葉はいつも通り。
しかし、レクスはそんなライフの”気まぐれ”に軽く笑みを零しながら、マントを大きく翻しながら肩に掛ける。
真紅のマントがレクスを包み、風に靡く。
「ご機嫌ね」
そんな台詞を零すのは、少々不機嫌そうなシスティルだった。
「世界に名立たる星になるか、星屑で終わるかは、これからのアイツ次第だがな」
システィルが不機嫌な正体を知ってか知らずか、ライフに対する所感を述べる。
そこまではジト目で見ていたシスティルだが、レクスに聞こえぬ程度の小さな溜息を漏らしながら表情を改める。
「…何だかんだで、結局助けに来た事…フェンに見抜かれてたのは何だけど、やっぱりレクス…」
見直した…と付けたかったのだが、最後まで紡がれる事は無かった。
「あんな小者誘拐犯相手に貴重な時間を取られるのは面倒だ…あの程度なら買出しの帰りに立ち寄るくらいで十分だろう」
しばしの沈黙。
「「…エ??」」
システィルもラティアも、何秒と掛けて漸く意味を理解し始める。
「ゆ…誘拐事件相手に…寄り道感覚なんて、初めて聞きましたよ…」
「やっぱりレクス…」
さっさと馬車に乗って澄ましていたライフが、異様に大きな鈍い音を耳にする。
うつ伏せになって頭に聖書を角からめり込ませている赤いマントの人影が見えた気がするが気のせいにしておく。
傍で「先生大丈夫ですかー」と騒いでいる狼娘がいるのもとりあえず聞かなかった事にしておこう。
「清楚なフリして案外乱暴ね」
その言葉は恐らくシスティルまで届いていないのだろう、不機嫌の度合いが一層濃くなったシスティルが馬車に乗ってくる。
「ワケ分からない!バカじゃなくて大バカよぉっ!!」
馬車の席の向かいに座ったシスティルに向かってライフが口を開く。
「構ってほしいならもうちょっと優しくしたら?愛想尽かされるわよ?」
「いいのよ!」
完全に拗ねた様子に呆れるが、その呆れも一瞬の事だった。
その時、システィルの表情に浮かんでいたのは、拗ねるといった棘のあるものではなく…。
「いいのよ…その方が」
諦めなのか、悲しみなのか、今にも崩れそうな色が確かに見て取れた。


部屋で荷物を纏めていたヴァネッサの元に、1人の使用人が訪れる。
「お…お嬢様?」
「質問は聞きませんわ。報告だけ頂戴」
ボストンバッグに衣類を始めとした様々な荷物を詰め込みながら、耳だけ使用人の口に傾ける。
「はぁ…例の傭兵の雇い主が分かりました。宰相派のベルトラム子爵です」
ベルトラム子爵…と言っても、いまいちピンと来ない。
それこそヴァネッサも、辛うじて名前と存在を知っている程度の貴族である。
「そう…それで子爵は今どこに?」
「それがつい先程、屋敷で暗殺されていたのを確認しまして…心臓に小さな風穴を開けられていたと…」
「…そう」
恐らくは傭兵の男を葬った者と同一犯だろう。
「同じ報告をお父様にもお願いしますわ」
ボストンバッグに詰め終わり、漸く使用人に向き直りながら言う。
「畏まり…て、お嬢様は…!?」
次の瞬間、ヴァネッサは派手に窓を開け放ち、シーツを数枚連なるように結んだロープを垂らすと、質問も制止も無視して一気にロープを伝い降りてしまうのだった。

「…で、何でお前まで居るんだ…」
「わ、私もご一緒して差し上げますわ!どの道路銀だってお困りでしょうし〜?」
王都を発って間もない馬車の中、そこまで狭くはない車内だが、よもやまさか5人乗りになるとは思っていなかった。
レクスが漸く起き上がった時には既にヴァネッサも乗り込んでいたのだ。
「ヘルの左手事件の報奨金で間に合ってるがな…」
「う…っ!」
「金持ちの道楽じゃないのよ…」
ライフまで冷たくあしらい、システィルとラティアは反応に困窮している有様。
「道楽のつもりはありませんわ!この国のあり方を模索するために、一緒に世界を見て行きたいのですのよ!」
表情を引き締めて言い放つ。
「…そう、道楽か本気か見定めてあげる」
小さな溜息を漏らしながら答えるライフ。
「一先ずはそういう事にしておくか…さて」
レクスも同意見なのだろう。
が、それだけ呟くと突然馬車のドアを開き、御者の隣に飛ぶ。
「驚きましたな…シャンプティエ公爵嬢がご一緒になるなど」
御者を務める男が笑いながら語る。
「少なくとも、煩くなる事は必至だがな」
「元気なのも良き事です」
否定をしない辺り、上流階級の間で彼女の評判が如何なるものかは想像に難くない。
そしてそれを裏付けるように…。
「今何て言いましたの!この冷血眼鏡!!」
「名前も覚えられないバカ貴族に二の句を言うだけ無駄ね」
「キィィィ!!!」
さっさと馬車の外に出たのは正解だったと思うレクスであった。
「元気がいい娘だ。大物になるぜぇ?元気が無くちゃ将来大物になれねぇしな!」
「お前が言うと説得力があるのか無いのか分からんな」
馬車の後を歩くバジルの横槍に溜息を漏らしながら。


ソレイラント3大公爵家。
ラ・シャンプティエ公爵に並ぶ格式を持つ公爵家にして、現宰相を務めるフランシス。
そのフランシス公が、外の明かり1つ入らない書斎で静かに書類と向き合っていた。
縁の広い帽子を被り、皺の寄った顔の隙間から冷たい視線を書類に落としている。
「…ル・フェーヴル卿かね…」
書類から目を離すことなく気配を辿る。
そこに立っていたのは、ル・フェーヴルと呼ばれた若い男だった。
「小者掃除をして参りました」
「ご苦労…実験用ゴーレムをあのような三下傭兵に扱わせて日の元に晒すとは…愚かな子爵よ…」
書類を机に落とすように置くと、深く溜息をつく。
「シャンプティエ公爵が嗅ぎ回っていましたが…」
「構わん…元より私の眼中にはないよ…」
「フフ…ではこの件はこれにて…それとは別に進言したい事がありまして…」
「ほぉ…?」
ル・フェーヴルがフランシスの耳を借り、彼に静かに言い添える。
「クク…構わん、私の計画に何ら問題は無い」
「了解です」

 

 
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