06:分かたれる者
そこはソレイラントの王都ソレスティア。
白亜の荘厳な城を中心に差し渡し6クルトにもなる広大な土地に多くの建物が犇めき合い、更にその外周を城壁で守られた街である。
無論大勢の人々で大通りは賑わう。
多くの馬車が行き交い、露天商達が道脇に所狭しと各々の商店を並べ、その活気はレンダールにも勝る程だろう。
そんな活気に満ちた城下町を一望する王城ミューゲル・ハルツの中、国王の執務室で書類に目を通す一人の男の姿があった。
他でもない、ソレイラント国王であるエドゥアール・ド・ソレイラントである。
およそ30代になるだろう美しく整った顔立ちと、肩口までのシルバーブロンド。その頭には王を象徴するクラウンが輝いている。
壮麗な彫刻に彩られた机の前に座して姿勢を崩す事無く目を通していく。
柔らかな陽光が差し込む中で水を打ったように静かなその部屋にノックの音が響いたのは間もなくの事であった。
「お入りなさい」
開かれた扉から現れたのは国王直属騎士団シュヴァリエ・ド・シャッフルの正装に身を包んだ男であった。
「ジョーカー、ノエル・ラグナード・シュヴァリエ・ド・ラ・アッシュ。参りました」
「来ましたねジョーカー…彼方に少し頼みたい事があります」
「おおーここが王都か…俺初めて来るぜぇ!」
外壁の前では、王都の街並みを悠々と見回すバジルの姿があった。
一通り見回すと、肩に乗っていたレクス達に手を差し出して地上に下ろしていく。
「ありがとうバジルさん!」
「オウ!いいってコトよ!…ン?」
元気よく手を振り上げるラティアに、バジルはサムズアップで答えた。
しかし、バジルの目線が移るときょとんとなる。
バラッド姉妹がさっさと街の中へ入って行っているのだ。
「「世話になったわ。私達は探し物もあるし、これで…」」
素っ気無く背を向けたまま、バラッド姉妹は人々の喧騒の中へと消えていってしまった。
余りの突然の事に残された4人はそれぞれに唖然となる。
「レクス、あの二人…」
二人が消えていった方角から目を離さないレクスに、システィルが問いかけた。
彼女のまた、突然態度を変えたバラッド姉妹が気になるのだろう。
「少し様子を見てみるか…どうも気にしているのは俺だけではなさそうだ」
小さな石を拾い上げると、その石が急激に柔らかい羽毛へと変化し、瞬く間に梟の姿へと形を変えてしまう。そう、オルバートである。
オルバートはシスティルの肩に乗り、呟きだす。
「あの二人の後ろに妙な妖精がいるねぇ…小生もちょっと気になるのさ」
「オルバートとシスティルはあの二人の様子見だ。俺は確認する事もあるし、この先の酒場に行く」
レクスはそのまま踵を返し、バラッド姉妹とは別の方角に向けて歩き出す。
「ちょっとレクス!」
システィルは突然の事に意見しようと呼び掛けるが、それ以上の事は言わなかった。
あの二人の様子が気になるのは確かだし、連絡や非常時の備えにこの妖精を同行させてくれるのだろう。
小さな溜息一つ漏らすと、バラッド姉妹の後を追う事にした。
さて、レクスはといえばラティアが後ろを付いて回る中、適当な酒場を探していた。
バジルは自分の仕事探しもあるとの事で先程分かれ、適当な店を探して真っ直ぐ進むレクスと、物珍しさにあちこち目移りしてはレクスの後を追いかける二人だけである。
酒場に入ると、流石王都だけあると言ったところか、そこそこ人が多い。
昼間から賑わう酒場の中で適当なテーブルを探し、ラティアと一緒に椅子に腰を下ろす。
2階席という事もあって窓から見える表通りの景色もよく、窓枠で切り取られた陽光が差し込んでくる。
「先生、何もシスティルさんだけ行かせなくても…」
「ああいうのは大所帯で押しかけると逆効果。その辺の処世術を心得てるだろうシスティルに任せておくのが適当だ」
「なるほどー」
納得しながらも、窓からバラッド姉妹が去っていった方角を眺めるシスティル。
やはり彼女も、あの二人の態度の急変が気になるのだろう。
「…で、盗み聞きとはあまり関心しないな」
不意にレクスの口から出た言葉を怪訝に思い、ラティアが振り向く。
レクスが傾けた首の向きから、今の台詞はラティアに向けた言葉ではない。
レクスの斜め後ろの席にいた者…豪華な刺繍が入った白いローブに、目元まで見えなくなるほどのフードを被った人がいた。
「いえ、此方としては気付いてもらわないと、次に動きようがないですからね」
声色は青年と壮年の間程度の男の声だろうか、どこか貫禄を漂わせ始めた澄んだ声で返事が返って来る。
人を食ったような物言いと共に立ち上がると、レクス達の席の前まで歩み寄り、フードを軽く捲ってレクス達だけにその顔を明かす。
撫で付けたシルバーブロンドの髪に美しい顔立ちが映える男である。
「???」
ラティアが首をかしげた。というのも、その顔に何となく見覚えがあったのだ。
しかし、誰かと問われるとイマイチ答えが出てこない。
「お久しぶりですね、レクス・アルベイル」
「国王ともあろうものが、街の酒場で何を油売ってる」
レクスの言葉にワンテンポ遅れて、ラティアは漸く頭で理解した。
そして同時に、あまりにも場違いな場所にとんでもない人物が来ていた事に嫌でも驚かされる。
そう、その人物こそ、ソレイラント国王であるエドゥアール・ド・ソレイラントだったのだ。
「せせせせせ先生!!?!?!いいいいいいつのまに王様と!!?」
「騎士団入団試験の時に面識を持ったくらいだ」
それでタメ口で話せる辺りどうなのかと思いながら、あまりの事態に舌が回らない。
「面白い子を連れてますね、報告にあった彼方の教え子…ラティアちゃんでしたっけ?」
話題が振られ、名前を呼ばれ、その度に背筋に強いバネでも仕込んだように跳ねる様にして硬直する。
「はっはぃ!へ陛下は今日はっどういってぃぁっ!?どういった…」
「落ち着け」
「フフ、いえ…ちょっとした散歩ですよ」
目も口も大きく開き唖然となるラティア。
王としての仕事も多くあるだろうし、そうでなくとも出てくる理由があまりにもあんまりすぎる。
対するレクスは最初からそんな物言いを真実と受け取っていないのだろう、相変わらずの澄まし顔のままだ。
「…というのはまぁ冗談で…」
そう言うと、急にエドゥアールは周囲の耳を気にするようにさり気なく目配せする。
「詳細はこちらで…」
そういって一枚の羊皮紙を伏せた状態でそっとテーブルに置き、踵を返して去っていく。
去っていくお忍びの王の後姿に、声を掛ける間もなかった。
レクスがその羊皮紙を捲り上げて目を通してみる。
「王城入城許可証か…よほど表で聞かれるのはマズいらしいな」
嵐のよう…とはよく言ったもので、突然現れて驚かせ、去っていく国王とレクスのやりとりは、ラティアでなくとも驚く事ばかりであった。
そして王が直接用件を伝えにわざわざお忍びで迎えに現れ城へ招くという、師匠であるレクスがどれほどの存在か、改めて思い知らされる事になった。
さてシスティルはといえば、バラッド姉妹の買い物に付き合っていた。
最初は一体何に腹を立てていたのかと思ったが、実際話してみると、どうやら違う様子だった。
寧ろ純粋に、現行の研究に改めて集中し直したようなものであった。
一先ず原因は自分やレクスでは無さそうで肩の荷が一つ下りたが、新しい疑問が沸く事となった。
態度を変えるほど傾注する研究とは何なのか、そう駆り立てるのは何なのか…である。
そして同時に、姿を消して一緒についてきているオルバートの言葉も気になる。
「研究は、二人で役割分担してるんだ」
「「当然ね、一緒に同じ課題に取り組んでも、考え方も出てくる答えも一緒。安心してライフ/リーフに答えを任せられる。分担して研究した方が効率的よ」」
「なる…ほど…」
感情があまり乗らない口調で淡々と答える姉妹。
何とも不思議な絆と言うべきだろうか。半分理解の範疇に収まりきらず、生返事になってしまう。
「今はどういう研究をしているの?」
突然足を止める姉妹。
「「魔法の使える人には関係ないコトよ」」
やはりその口調は淡々としたものだ。
しかし、突き放すような色を含んだ一言。
ほんの一瞬押し黙ったシスティルだが、再び歩き出そうとした姉妹の前に突然梟が現れ、その梟が次の瞬間には人間の姿に変貌した。
他でもない、オルバートである。
「いえいえ関係なくはないでしょう…少なくともレクスと縁のある方達なら、放っておく手もないですねぇ」
「「相変わらず含みのある腹黒い言葉ね」」
呆れ返る双子から毒突かれても、ヘラヘラした態度で苦笑しながら返してしまう。
「おやそう聞こえてしまいましたかねぇ、参りました…ですが小生より腹黒い方は五万といるでしょうに…」
軽く俯く双子の目は、露骨に疑いの目をオルバートに向けていた。
「「…回りくどいにも程があるわね…何が言いたいの?」」
相変わらずオルバートの顔は真意の読めないヘラヘラとした笑顔を貼り付けている。
但し、いつの間にかその眼光は鋭く…。
「彼方達には分かっている筈でしょう?今自分達が大きな岐路に立っている事」
睨みあう両者。
触発の空気を含みながらも、オルバートはその言葉を止めなかった。
「おそらく、踏み誤れば取り返しのつかない事態に陥る…聡明な判断を下す事を祈るしか、小生には出来ないねぇ…」
漸く押し黙るオルバートだが、バラッド姉妹の鋭い視線は変わらない。
王城ミューゲル・ハイツ。
四方を掘りと厚い城壁で固め、白煉瓦の壁と紺碧の屋根が美しく映える巨大な城である。
レクスとラティアはその城内を、数名の衛兵に付き添われながら王の執務室の前に辿り着くのであった。
彫りの深い獅子の彫刻で飾られたドアノッカーを鳴らす。
「レクス・アルベイルとその付き添い、お連れしました」
衛兵の威勢の良い声が響くと、中から先ほど聞いた声が返って来る。
「お入りなさい」
装飾で縁取られた扉が開かれ、大きな会議室と言わんばかりに広い王の執務室の中へと通される。
扉が閉じられると、衛兵達は扉の両脇に立ち、直立で控える。
「招待に応じて頂いて感謝しますよ…」
席についていたのは他でもない、先ほどお忍びで酒場に現れたエドゥアール王その人であった。
エドゥアールが軽く手をかざして払う仕草を取ると、控えていた衛兵達が部屋を後にし、レクスとラティアの3人だけになった。
「そう緊張しないでくださいな」
苦笑しながら言うエドゥアール。
王の御前ともなれば誰でも緊張はするが、招いた二人の様子はあまりにも両極端だった。
普段とまるで変わらない態度のレクスに対し、ガチガチに固まって直立するラティア。
直立とはいえ、遠目に見ても緊張で震えているのは明らかなほどであったが…。
「全くだ…手足が一緒に前に出るし、動き方もどこのゼンマイ人形の真似だ」
「そんにゃ事…言っ…ほぎゃっ!?」
今度は舌でも噛んだのだろう。蹲って両手で口を押さえ始めた。
「さて、では陛下の下へ案内しましょうか」
椅子から立ち上がるエドゥアール。いや、エドゥアールの姿を真似た人物。
「やはり替え玉だったか」
「ええ」
部屋の横にある本棚の本を幾つか押し込むと、本棚の間が割れて隠し部屋が現れる。
そのままその人物が隠し部屋に入っていくと、その人物の姿が一瞬霞み、別の姿となる。
王直属騎士団の正装、そしてマントや胸のプレートにはジョーカーの装飾。
騎士団シュヴァリエ・ド・シャッフルの最高司令である証であり、王の腹心でもある人物だ。
「さぁ、早くお入りなさい」
ラティアの首根っこを掴んで抱え上げながら、隠し部屋へと向かうレクス。
ラティアはといえば、驚きの連続で緊張から意識呆然となったままであった。
隠し部屋は飾り気のない煉瓦で四方を囲っているが、机や本棚を始め、執務に使える程度の必要なものは揃っている部屋だった。
その机の前に座している人物こそ、本物のエドゥアールなのだろう。
隠し部屋へと入ると隠し扉は閉じられ、ジョーカーは本物の王の脇に影のように控えた。
「随分厳重な招待だな…」
「城内にも案外敵は多いものなんですよ」
いやはや…と苦笑しながら答えるエドゥアールの机に、レクスは一冊の本を放った。
「一応こっちからも言っておく…教育の質の低下は意図的なものか?」
それは、ラティアが持っていた学校の教科書であった。
「その件も含めて…今密かに大きな問題が起こっていましてね…」
机に両肘を突き、急に目線が鋭くなるエドゥアール。
なるほど、いざと言うときは確かに王としての威厳も見せるものである。
「一言で言えばフランシス宰相の暗躍…彼の使いが、ソレイラント各地のデッドリーポイントを探索している情報を掴みまして…」
「デッドリーポイント?」
漸く緊張や舌の痛みが引いてきたラティアが聞いてきた。
「ああ、デッドリーマナが何故かよく沸く場所が何箇所かあるんですよ…墓場や戦場跡、自殺スポットでもないのに…ね。一部の研究者の間では、その名前で呼ばれているんです」
「そんな場所が…?」
ラティアにとっては全くの初耳だった。
「各地の言い伝えで人を近寄らせなかったり、何故か凶悪な魔獣が多く出没する地点があるが、そういった場所は大体そうだな」
レクスの補足で、そういえばベルダンテールの近くの森にそういう場所があったのを聞いた気がするのを思い出した。
「只それだけでは済まないんだろう?」
勿論、研究や浄化の為に、あえてその場所を訪れる者も少なからず存在はする。それだけで疑うのは少々早計であった。
「そのデッドリーポイントで行っていた事が問題なんですよ…狩ってきた獣や、時には身寄りの無い人を生贄に、何かしらの魔法の使用を試みていたというのです」
「そしてそのフランシス卿が9年前に宰相に就任して、最初に手を付けた事項の一つが教育改革という名の…ソレだ」
補足を入れるジョーカーが視線を落とす先には、ラティアの教科書がある。
レクスも聞き及んでいる範囲では、今までフランシス宰相の事は無能宰相として認識されていたが、聞く限りではどうも只の無能宰相としておくわけには行かないようだ。
「その宰相について、どこまで分かっている…?」
エドゥアールはジョーカーに視線を移すと、ジョーカーが傍らにあった資料をレクスに差し出した。
「…ラクル・オルディス・デュク・ド・フランシス、55歳…典型的な貴族の出世人生だが…」
資料をペラペラと捲っていく。
終始ポーカーフェイスでその表情から何かを読み取ることは出来ないまま、あっという間に全てを読み終える。
「高等部の論文に気になる記述が多いな…」
資料を軽く放るように机に置くのを見ると、エドゥアールがレクスの顔を覗き込む。
「君はどう見るかい?」
「随分と冥界に執心だな…冥界の怪物を呼び出す研究にも手を出した形跡が見て取れる」
「やはりそう思いますか」
話は最早、ラティアの理解の上を飛び交っていた。
大体冥界など、精々神話や何かの物語くらいでしか聞いた事がない。
あまつさえ何で教育問題にも関わるのか、話が何一つ見えない。
「あの…先生、冥界とか…本当にあるんですか?」
「ああ、その存在や、如何なる世界かという研究は割と進んでいる。現時点で分かってる冥界の実態については後で説明しよう…一先ずは、死者が行く場所と思っておいて問題はない」
「死者が行く世界…それ故にその世界の解明に手を出す輩が多いのも事実だが…死者を蘇らせようとする行為は禁忌…あまつさえ冥界の怪物と繋がろうなど…」
レクスの後をジョーカーが補足する。
「そしてそんなフランシス宰相が、教育に手を出し、その質の著しい低下は御存知の通り…そして本題というか、彼方に依頼なのですが…」
「その宰相についての調査に協力しろ…という事か」
「聡明で助かります…」
バラッド姉妹は今、宿を取り、部屋の机に向かっていた。
のらりくらりしている様で突然核心に触れてくるオルバートと、鬱陶しい程に構って来るシスティル。
いい加減揺さぶられるのも鬱陶しくなり、突っ撥ねてきた末の事だった。
「最後の調整してくるわ」
「分かったわ、少し休んで後から私も行くから…」
リーフの纏めた研究書類を片手に、ライフは部屋を後にする。
このゴーレムの研究において、マナの貯蔵・伝達の設計等をリーフが、ゴーレム本体の調整をライフが担当していた。
初期の設計から幾度も改良と微調整を重ね、不足していた材料の調達を済ませ、愈々ゴーレムが完成する。
(そうよ…私とリーフの研究の成果の一つがもうすぐ…)
(これでもう…魔法の才を鼻にかける輩にバカにさせやしない…)
ライフが部屋を後にしたのを見送った後、リーフは部屋の窓に視線を泳がせた。
相変わらずというか、研究に没頭すると時間が経つのを忘れるもので、すっかり太陽は沈み、茜色の空の端も西へ去ろうとしている。
―愈々だね…もう誰も君達をバカにできない…今度は皆を見返してやるんだ―
聞こえる声は、あの日から語りかけてくる妖精の声。
「そうよ…私達はもう、昨日までの私達とは違う…」
突っ撥ねられ、それでも尚バラッド姉妹の様子が気になるシスティルは、バラッド姉妹が宿泊している宿の前に居た。
日はすっかり落ち、西の空が茜色の面影を残すのみの頃になっていた。
彼女らの言いつけだろう、宿の主からは門前払いにされて愈々手詰まりとなっていたのである。
街路灯に沿うようにして立ち、どこの部屋に居るのかも分からない彼女らを探すように窓を眺める。
「いやぁ…貴女も飽きませんねぇ」
システィルの肩に止まっている梟…オルバートが、掴み所の無い飄々とした口調で問いかけてくる。
しかしシスティルの神妙な顔つきはどうにも変わらない。
「妙に真剣ですね…何かあったんですか?」
視線を落とすシスティルが漸くゆっくりと口を開く。
「どうしよう…このままじゃ、あの二人…」
その言葉に漸く、彼女が真剣な理由が分かった。
「ほう…”見えた”んですか…?」
システィルが小さく頷くと、オルバートもまた考えるような仕草を取る。
システィルに限らず、ファーシー・バンシーと呼ばれる種族は、死の運命が近づいた者の影が赤く見えるという、特殊な能力がある。
その特異性から、今でもその能力の存在を信じない者もいれば、疫病神の類としてあしらう者もいる。
「問題はそこまで深刻…本格的に危険ですねぇ…、部屋に押し入ってでも止める必要はありそうですね」
部屋に向かって飛ぼうとしたオルバートだが、システィルが慌てて引き止めた。
「そんな強引な…」
「強引でも止めないといけないほど、案外状況は切迫してるんですよねぇ〜…あのきな臭い妖精が考えそうな事は只一つ…」
突然オルバートの言葉が止まり、一つの窓枠に振り向く。
その挙動も表情も、雰囲気は今までにない緊迫したものが見て取れた。
「やれやれ…手遅れですか…」
「え…」
システィルがオルバートの視線を追って顔を上げた瞬間だった。
その一室を中心に窓ガラスが次々に粉々に弾け、宿泊客達の悲鳴が聞こえてきた。
一瞬の出来事は道を往来する人々も足を止め、何事かと見上げる。
「な、何…?何が起こったの?」
突如として起こった異常事態に思考が追いつかず、咄嗟に逃げる思考も働かない。
それがシスティルの運命を分ける事となった。
更に次の瞬間、宿が突然大きく音を立てて崩れ始めた。
そしてその瓦礫の一つがシスティルの頭上に影を落とし、迫って行く。
「システィル、逃げなさい!」
流石のオルバートも、ソレに慌てて声を上げる。
「え…」
迫り来る影に気付き、システィルが見上げると…。
騒動の起こった宿がよく見える、大きな建物の屋根の上に、あのローブの男は腰を下ろしていた。
一瞬で阿鼻叫喚の騒ぎとなった宿周辺を見て、その口元を持ち上げる。
「派手にやってんなぁ、全く…こんな楽しい祭の仕込みでミスっちまうたぁ、オレ様も運がネェ」
ローブの男の上から、一羽の大きな禿鷹が舞い降りてくる。
人語を理解し、喋る鳥は流石に早々居ない。
そう、この禿鷹も妖精であった。
「あの野郎は仕込みがうまくいったみたいだナァ…」
「彼は君と違って詰めが得意だからねぇ…」
「ハッ!オレ様はそんな面倒なコトより、もっとでっかいコトのが好きなんだよ!」
「まぁ、その為に派手なコトに参加できないワケだけどね」
「チッ」
逐一粗野な反応を見せる禿鷹に対し、ローブの男の反応は冷静であった。
「まぁ見ているだけでもオツなものさ…そうだろう?シェイルバート…」
「さぁな…観衆じゃなくて主催じゃなきゃ面白くもネェ」
シェイルバートと呼ばれたその禿鷹は、そのまま霞のように姿を消すのであった。
そんな消えていく禿鷹を意にも介さず、ローブの男はゆっくりと立ち上がる。
「…さぁ、実験は次の段階だ…」
王城の隠し部屋では、ジョーカーが突然入り口へと移動した。
エドゥアール王の姿に化けた上でのコト、恐らく訪問者だろう。
ジョーカーが後にした部屋でも、会談は続いていた。
「なにぶん急な依頼ですが…請けて頂けますか?」
「…いいだろう」
レクスが静かに口を開いたその直後、意外な訪問者が訪れた。
全身を鎧で固めた、緑髪の男がレクスの傍らに急に現れたのだ。
「レンか…何があった?」
それは、レクスの契約妖精の一人、風の妖精レンバートである。
「警告に来た。レクス…ベルダンテールを壊滅に追い込んだ化け物か…それに類似したものが出るぞ」
その警告にレクスとエドゥアールの眉が動く。が、誰より大きく反応を見せたのはラティアだった。
蒼白になり肩が震える。その当時の恐怖を目の前で体験した以上、それも無理もないだろう。
そんなラティアの様子を伺うレンバートだが、直ぐに姿を消していく。
そしてそれと前後し、ジョーカーが再び隠し部屋へと戻ってきた。
「陛下、フェルーリ通りの宿にて原因不明の中規模の爆発事故が発生、直後膨大なデッドリーマナが検出され、現在王都の各地でも微量ながらデッドリーマナが発生しております」
「何…?」
それは不可解と言うより他にない事件である。
死人が出るような事故であっても、マナが徐々に腐敗するのではなく、急激に膨大なデッドリーマナが発生するなどあり得ない話である。
「レクス…今あなたの妖精が警告したコトとの関連性は…?」
「ラティアの証言が確かなら、無いとは言い切れんだろうな」
「その怪物が現れる前兆現象…という事ですか…?」
「だろうな…」
緊迫した中で、努めて冷静に話す二人を他所に、震えていたラティアは何を思ったか、急に駆け出して執務室に飛び出した。
3人はすぐ後を追うが、執務室に出た所で立ち止まる。
ラティアは部屋の窓ガラスの前で力なくへたり込み、目を大きく見開いている。
その顔には明らかに恐怖の色が浮かび上がっていた。
「あの時の…あの…あの手が…!」
ラティアの視線の先には、爛れたように赤く染まる月をバックに、首を持ち上げるようにして立ち上がる巨大な左手の姿があった。
それは一体どれほどの大きさなのか…地平線を描く山から生えているような距離があるのに、特大の入道雲も小さく見えるほどの、あまりにも巨大な手であった。
その指を不気味に蠢かせながら、或いはそれは此方に迫ってきているようにすら感じる。
「何と…」
「ジョーカー…王都に居る全ての国民に避難命令。王都に駐屯している全軍に、非常警戒態勢を敷くよう…」
「畏まりました」
すぐさま執務室を後にするジョーカーからすぐ目を離したエドゥアールは、続いてレクスにも話し掛ける。
「レクス…」
「内容を聞くまでもないな…断る理由もない」
「助かります…」
それだけ言うと、今度はレクスがラティアの頭に手を置いた。
今にも恐怖で叫び散らしそうなほどの切迫した表情のラティアは、その引き攣った表情のままレクスの顔を見上げる。
「ここにディレアはいない…だが何も悲観するコトもないだろう」
「でも…!」
「もう忘れたか?ここには俺がいる」
それだけ言うと、レクスは窓を開き、外へと飛び出していった。
時間はほんの少し遡る。
宿のベッドで休息を取っていたリーフの枕元に、再びあの声が聞こえてくる。
―さあ、決まったかい…?―
「ホムンクルスの体の提供…だったわね。でもそう直ぐには作れないわよ?」
声の主に向かって、まるで一人呟くような声で話しかける。
―方法はあるのさ。あとは君の決断一つ…それでもう、誰も君をバカにしたりはしない―
リーフは迷っていた。
ライフと二人、誰にもバカにされない世界が来ればいい。その願いに嘘偽りはないし、隠す気も更々ない。
ゴーレムとホムンクルス。
どちらも作り上げてしまえば、一流の真理学者である実力を証明できる。
正直、この妖精の言葉は願ったりなのだ。
しかし心の奥で良心が疼くのも事実。
人を見返す為に創るモノが、本当に良いものなのか…と。
―…それでも君は、戸惑っている。復讐の為に何かを生み出す事に…―
「当然ね…それが人の…」
―でも、君の姉は、ホムンクルスを作る決断をした…―
「!?」
リーフが想定していた時間より遅れている事が気に掛かり、ライフは部屋へと向かっていた。
愛想もなく一直線に歩くライフの態度は、すれ違う人々をたじろがせるが、そんな事を気にする彼女でもない。
漸く部屋の扉が見える所まで来たと同時に違和感を感じた。
視聴覚的なものではない、第六感とも言えるだろうか、嫌なオーラを扉から感じ、一瞬足が止まる。
「何…?」
急いで駆け寄り、扉を開け放つと、そこには異様な光景が広がっていた。
赤黒い霧の塊のようなものが、リーフの体を持ち上げて取り巻いているのである。
虚ろな表情をしているリーフは遅れてライフの存在に気付き、力なく顔を上げた。
「リーフ!?」
「ライフ…どうしたの?」
「どうしたじゃないわよ…!」
あまりにも温度差の違う口調は、いつもの二人ではありえない事。
ライフはまさかと思った途端、案の定頭に声が響いてきた。
―おやおや…シェイルは失敗したようですねぇ…―
突然、霧の塊の中から別の人影が姿を現した。
それは、細身と言うにはあまりにも異形な、骨と皮だけといった体格の男。
やや青白い顔だが、表情まで貧相というワケではない、不気味な笑みを含んでいた。
「そう、リーフにはアナタが取り付いていたのね…」
できるだけ冷静を保とうとするが、言葉の端々がどうにも震えてしまう。
「ええ…これがアナタ達が待ち望んだコト。そして…」
赤黒い霧は急にリーフの体に吸い込まれ、ソレで反動でもつけたように一気に霧の端を無数に伸ばして壁に突き立てる。
その衝撃で窓ガラスは木っ端微塵に弾き飛ばされてしまう。
「実験は第2のフロンティアへ…」
「っ!!」
目の前に現れた異形の妖精に飛び掛ろうとするライフ。
しかし2・3歩進んだ所で見えない空気の壁のような圧力に阻まれ、押し戻されてしまう。
「クッ!」
そうしているうちに、霧の先端はゆっくりと戻っていく。
だが驚くのはそれからであった。
戻っていく霧の端には、恐らく宿の他の宿泊者や従業員だろう人達が絡め取られ、壁をすり抜けて次々と引き寄せられて来たのだ。
「うわああああっ!?」
「な、何だぁぁ!」
赤黒い霧の中に、絡め取られた人達が次々と引き込まれ、その度に霧はその大きさを増していく。
その霧の中から、取り込まれた人達の断末魔を響かせながら…。
「ライフ…何で驚いてるの?」
聞こえてくるのは確かにリーフの声。
しかし目の前にあるのは、どんどん膨張し、部屋の壁を押し破っていく霧のような物体である。
ライフは弾かれたように駆けだし、宿を飛び出していく。
(何…?私とリーフ、何が狂わせたの…?)
宿の入り口を飛び出した直後、有機的な表皮を持つ歪な人型のソレが、脆くなった繭を破るようにして姿を現す。
その身長は16メルタはあるだろうか。
今朝まで一緒だったバジルとは二回りは小さいが、それでもその醜悪な外見と相まって圧迫感を感じる。
「あの薄気味悪い妖精が何を仕掛けたのかしらね…何にしても、返してもらうわよ」
腰の小物バッグから卵のような形と大きさを持つオーブを取り出すライフ。
「本格起動の初仕事がコレなんて、随分な皮肉じゃない…サモンゴーレム…!」
オーブが輝くと、その光がライフの傍で18メルタ級の巨人の姿へと形を変えていく。
現れたそれは、大きな岩を幾つも組み合わせて人型にしたゴーレムであった。
ゴーレムの胸板の上にライフが飛び乗ると、ライフの足元に魔法陣が現れ、ライフはゴーレムの中に吸い込まれていく。
「リーフに手を出した以上、放ってはおかないわよ…下種妖精」
「フフ…仲良くアナタも、擬似ホムンクルスになれば良かったものを…」
それは大勢と言っても足りない、正に無数と言って差し支えない人間の上半身を象った腐った泥の集団。
飢えた者達が群がるような異様な雰囲気を纏いながら、無数の泥ゾンビ達が王都へと迫って来ていた。
目の良い者はこの泥ゾンビ達が一体どこから来たのかは直ぐに気付く。
あの巨大な手が無数の雫を垂らしている事を顧みれば、おそらくその雫の正体がこの泥ゾンビ達だろうと予測は付く事だろう。
勿論、王都に駐屯している国軍も黙っている道理など無い。
防衛ラインの展開は既に始まっており、街の大通りは昼間の活気とは違う緊迫した空気に包まれ、巣を突付かれた蜂の如く兵士達が駆け抜けていた。
泥ゾンビ達があと数百メルタといった距離で防衛ラインは完成した。
整然と並ぶ歩兵達がラウンドシールドを構え、後ろに控える魔術師隊が詠唱を始める。
当然、その間にも泥ゾンビ達は迫って来ていた。
「放てェェェェ!!」
指揮官の合図と共に、魔術師隊の杖が一斉に掲げられ、防衛ラインから無数の光芒が山形の弧を描いて泥ゾンビ達を襲っていく。
そして降り注ぐ魔法の光芒は次々と爆炎の山脈を描き上げ、ゾンビ達を炎で塗りつぶしていく。
その光景を満悦の表情で眺めていたのは指揮官の男である。
「他愛も無い…一体何の化け物かは知らんが、我が部隊の前に立ったのが運の…」
だが、満悦の表情は一瞬にして驚愕に塗り替えられる事となった。
炎の山脈を払いながら、尚も次々と泥ゾンビ達が迫って来るのだ。
勿論魔法が効いていないワケではない。
あまりにも大群過ぎて、先頭の群集を吹飛ばすのが精々だったのだ。
「なっ!?…ほ、歩兵隊!突げ…」
慌てて前衛の盾を構えていた歩兵隊を突っ込ませようとするが、脇を通り過ぎる者にその合図は中断させられた。
「何…!?」
ワンテンポ遅れて指揮官の男は、脇に下げていた軍刀が無くなっているのに気付く。
そして掠めていったその存在に視線を移した。
「だ、誰だ貴様!!」
軍刀を掠め取り、駆け抜けて行ったのは、褐色の髪を持つ赤い袖無しジャケットを着た青年。
そう、レクスである。
指揮官の男の言葉に耳を貸す様子もなく、泥ゾンビ達に一気に駆け寄り、掠め取った軍刀を泥ゾンビの眉間に突き立てる。
そしてそのまま軍刀を手放し、大きくジャンプして後退、距離を取る。
その動きに一切の澱みは感じられず、恰も軍刀を当然のように置いて来たような雰囲気さえある。
「…やはりな、ワーウルフ族が成す術もなくやられるワケだ」
レクスの視線は、軍刀を突き立てた泥ゾンビに注がれていた。
その泥ゾンビは悶えるわけでもなく、突き立てられた軍刀は泥ゾンビの中に取り込まれていった。
そう、この泥ゾンビ達は全て、触れた相手を取り込んでしまう能力を持っているのだ。
そして再び、何事も無かったようにレクスや国軍達目掛けて突進してくる。
「…ジルバート」
「あいよぉ!!」
剣の石に手を置き、ジルバートを呼び出すと、ジルバートは巨大な鋼の鷹の姿となって現れる。
「鬱憤晴らしには丁度良い撒き油じゃない…さ!!」
口元に一瞬にして魔法陣が浮かび上がり、嘴を大きく開くと、魔法陣から巨大な炎の玉が撃ち出される。
凄まじい速さで泥ゾンビ達の群という絨毯に落ちると、特大と言っても余りある巨大な火柱を上げた。
「うおおおおっ!?」
爆発の衝撃波を踏ん張って耐え凌ぐ国軍の兵士達。
火柱が収まると、泥ゾンビは勿論炎の山脈すら残っておらず、あまりの威力の違いに誰もが唖然としていた。
その中でレクスは何食わぬ顔で国軍達の方へ振り向き、言い放った。
「まだまだ来るぞ…前衛は無理な突撃は控え、抜きん出て突撃してくるヤツの頭を押さえる事だけを考えろ。盾で頭を押さえたら盾は直ぐに手放して距離を取れ。魔術師隊は常に集中砲火だ…その間に砲撃隊の準備を急がせるんだな」
それだけ言うとレクスは立ち去ろうとするが、黙っていないのが指揮官の男だった。
「貴様!誇りある貴族の剣を盗むばかりか、何を勝手な事を!」
「騒ぎたいなら後にしろ、無用な殉職者を出す気か?」
「何だとおぉぉ!!」
レクスと指揮官が睨みあっている間にも、後続の泥ゾンビ達が距離を詰めてきた。
それに気付くと、レクスは更に付け加える。
「襲われているのはここだけではない…王都の周辺、四方から取り囲まれている…」
それだけ言い残すと、早々に走り去ってしまう。
怒りの矛先を途端に失った指揮官は、兵士達に怒号とも言える勢いで指令を出すのだった。
「ええい!魔術師隊!放てぇぇ!!」
システィルが目を覚ました時には、そこはどこか分からなかった。
まず頭痛が激しく、辺りの異様な騒がしさはその頭痛を加速させた。
痛みで重い頭を抱えながら起きると、そこは想像を絶する光景が広がっていた。
まずそこは、王都の広場の一つを間借りしている場所ではあった。
問題はその用途と言うか内容である。
一面敷き詰められた毛布に所狭しと横たわる怪我人の山。
泣き叫ぶは肉親等親しいだろう人達。
その間を縫うように右へ左へと駆け回り、治療に当たる医師達。否、最早治療というより応急処置に近いだろう。
恐らくは王都中の可動可能な医師の数だろうが、全く手が足りていないのは誰の目にも明らかであった。
「まだ起きてはダメだよ!」
初老の医師が視界の外から声を掛けてきた。
「…え?」
「君は瓦礫の下敷きになっていてね、頭の怪我が酷かったんだ。今下手に動いては悪化する危険性がある!」
システィルを半ば強引に横にさせると、遠くから医師を呼ぶ声が聞こえ、初老の医師は慌てて駆け出した。
なるほど、頭痛の正体はそれのようだ。
だが、この惨状を黙って横になって見過ごす事は、システィルには出来なかった。
「っ!!…ウィア・ラセリオール…」
小さく呪文を唱えると、自らの頭の傷を回復魔法で塞ぎ、頭の包帯を外してしまう。
正直、元々追っていたバラッド姉妹の安否も行方もさっぱり分からなくなってしまい、気にはなる。
しかし…
「レクス…ライフさん、リーフさん…ごめんなさい!」
立ち上がると、回復魔法の呪文を唱えながら、特に怪我の酷い者から次々に癒し始める。
バンシーの能力は、この惨状の絶望的な結末を告げている。
横たわる怪我人達の、まるで血溜まりのように赤い影の何と多い事だろう。
中には今は怪我を負っておらず、怪我人の脇で必死に呼びかけている者の中にも赤い影が見える者さえいる。
彼等、彼女等は間違いなく、この理解の範疇を超えた事件の中で命を落としていくのだろう。
それでもシスティルは、そんな名前も知らない人々の死の運命に抗う道を選んだ。
王都中が阿鼻叫喚の大騒ぎに狂う様を、ローブの男は肩に禿鷹の妖精を乗せたまま高い空に浮き、特に感慨も持たない顔で見下ろしていた。
「どうだ、デッドリーマナや”嘆き”は集まりそうか?」
「まぁ順調にね…この実験で多くの消耗をしたんだし、集まって貰わないと困るけど」
そう言うとローブの男は、あの巨大な手に視線を移した。
「勿体ぶった言い方じゃねぇか。呼び出したあの手のバケモンに何か不満でも?」
暫く巨大な手を眺めていたローブの男が目を伏せ、再び口を開く。
「まぁ、支払ったコストの量がとても満足な量じゃないから、あの程度が精々だろうね…本来の力から見て、魔力は2割に満たず、知能に至ってはそこらの獣並み…」
「おいおい…そいつぁ…」
禿鷹の妖精、シェイルは驚きと呆れの入り混じった声で答える。
無理もない。無数の泥ゾンビを垂れ流しているだけだが、あの巨大な手から感じる魔力はあまりにも底が知れない。
それ程の力を持ちながら、その力は本来の2割以下であり、本来の知能も遙かに高いというのだ。
シェイルから見れば感嘆を漏らすほどの化け物だが、恐らくこのローブの男にはまだまだ幼稚な駄作にさえ見えている可能性さえある。
「まぁ実験は実験…じっくりと行方をみせてもらおうじゃない…」
もう一度だけ眼下に広がる、王都の様子を見やると、そのまま霞のように姿を消していった。
眼下の王都は既に泥ゾンビの海の中でポツンと取り残された孤島の様でさえある。
ソレほどまでに、四方は地平線まで埋め尽くす膨大な数の泥ゾンビで溢れていた。
国軍中央庁舎の司令室は、今正に一言で言えば修羅場になっていた。
伝達魔法や伝令兵との情報のやり取りで常に騒々しい司令室だが、襲撃から数時間で絶望的な報告も舞い込んできていた。
「ジリ貧どころか嬲り殺しかっ…くそっ!!」
誰ともなく、解決の糸口の掴めない不安を口にする。
どこの防衛ラインも、辛うじて現状維持している状態である。
死傷者が次々に出ている上での事、相手は後から後から際限なく押し寄せて来る。
その上相手は近接戦を挑めば一方的に相手を吸収してしまう能力を持つという。
盾や槍はリスクが高い武器と見ざるを得ない。
その件については、強力な魔術師が各防衛ラインを巡って警鐘を鳴らしたという報告も受けている。
しかしそれでも焼け石に水なのだ。
「ほ…報告…!西部第4ライン…突破され…ました…っ」
息も絶え絶えに、満身創痍の体を引き摺って現れた兵が声を絞り出して報告してきた。
「何!?」
「クッ…他から回せる兵は!?」
「そんな事をすれば、他も崩れるぞ!」
遂に訪れた防衛の限界。
誰もが抱えていた不安が爆発し、その混乱は一気に過熱していく。
「一通り回って状況は分かった。」
突然、冷静で聞き覚えの無い声がし、声がした方向に皆の視線が集まっていく。
司令室の中に突然現れたのは、何と各前線を回ってきたレクスであった。
「あとは俺が片付ける。王都に侵入したゾンビは全戦力を王都内に引き戻して処分に当たれ」
「な…!?」
レクスは軍属ではない。ここで指令を出す権限などありはしない。
それが常識外れな内容であれば、余計に周囲の神経を逆撫でしてしまうのであった。
「バカも休み休み言え!」
「では誰が他の怪物を食い止めると言うんだ!」
当然、レクスに非難が集まるが、レクスは全く動じる風も無く呟く。
「食い止めはしない。俺が一掃する」
「ハァ!?」
四方の地平線まで埋め尽くすような怪物の群集を、一体どうやって一掃するというのか、誰にも想像がつかなかった。
しかしその中で、一人頷く者がいた。
「分かった。行って来い」
レクスの次はその男に周囲の視線が集中する。
その男は、シュヴァリエ・ド・シャッフルの装備を身につけ、Kと書かれたスペード型のプレートを胸に着けた男。
国王直属騎士団、戦士隊であるスペード部隊の隊長であった。
「何を言い出すんですか!いくら彼方でも!」
「彼の実力を知った上で同じ事が言えるなら聞こう」
彼の言葉に気圧され、再びレクスへと視線を戻そうとした。
しかし彼の姿はそこにはなく、開け放たれた窓から飛び出していく所であった。
「今日は思い切り行くぞ…ジルバート!ラルバート!レンバート!オルバート!」
巨人魔法で変身すると、続けざまに4体全ての妖精を呼び出し、剣を高く掲げる。
すると巨大な魔法陣が現れ、その中心をレクスを含めた5体が潜っていく。
「魔導融合」
オルバートが足に、レンバートが肩に、ラルバートが前腕に、ジルバートが翼から胸部・頭部までを覆い、レクスより二周りは大きな巨人へと姿を変えた。
全身を覆うかのようなマントと、頭を隠さんばかりに大きな鍔を持つとんがり帽子を身につけた巨大な巨人が、空高く舞い上がっていく。
「何と…!」
司令室から驚きの声が次々に上がる。
そして、つい先ほどあのような啖呵を切ったスペード隊の隊長、スペードキングすらも驚いていた。
「常識外れの実力者だと認識していたが…何だ彼は…上位妖精4体も連れるなど、最早人間の域を超えている!」
それは、そもそも上位妖精と契約する事自体が極めて稀な事例である為あまり知られてはいない。
一人の人間が契約できる上位妖精は、どんなに熟練した魔術師でも2体が限界なのだ。
それは誰に於いても変わる事はない。人間はどんなに効率の良い動きをしても、その瞬間に腕2本分の仕事しか出来ないのと一緒。
レクスはその常識を逸脱する4体との契約を果たしている。
さて、そんな驚く者達を他所に、ヴァンレクスは長大なロッドを掲げ、ロッドの先に巨大な魔法陣が現れる。
すると更にロッドを振り、その魔法陣を叩き割るように振り下ろす。
魔法陣はロッドに割られると、ヴァンレクスを取り囲むように無数の魔法陣となって配置された。
「…ダータレッド・フォール」
呪文が完成するとロッドを大きく振り、無数の魔法陣から一斉に火の粉が噴き出して王都の周辺に降り注いで行った。
泥ゾンビ達の体にその火の粉が降り注ぐと、瞬く間に泥ゾンビが爆発四散する。
だが前線に居た者達が驚いたのはそれからであった。
爆発した泥ゾンビの燃える破片が周囲の泥ゾンビ達に命中すると、その泥ゾンビ達まで爆発する。
その破片は更に隣の泥ゾンビに移り…そう、次々と爆発が連鎖していくのだ。それも凄まじい勢いで。
恐らくその光景を見る事が出来たのはヴァンレクスだけだろう。
王都を中心に円形の炎の津波が、泥ゾンビの海を根こそぎ焼きながら広がっていく壮観な光景である。
「し…信じられん…」
「む、無限連鎖の爆破魔法…あの魔法巨人は一体…」
今の今まで繰り広げられていた死闘は、突然現れたヴァンレクスの魔法一つであっさりと決着が付いてしまったも同然なのだ。
そして中には気付いた者もいた。
兵士達も火の粉や泥ゾンビの破片を浴びた者達は決して少なくはない。
しかし誰一人として、爆発した兵士は居ないのだ。
「只の連鎖じゃない…泥ゾンビだけに反応する、判別の呪文が重ね掛けしてある…」
司令室は突然の戦況の変化、そして決着という摩訶不思議な報告に混乱する事となった。
いつ決壊してもおかしくない防衛ラインが、突如として相手の連鎖爆発で決着が付いたと言う。
どの部隊からも一様に同じ報告が告げられていた。
「スペードキング…あの男は何者だ?」
「私も多く存じているわけではない。只、一人の女の為にどこまでも強くなれる大馬鹿者…といった所でしょうかな」
スペードキングは、去る入団試験におけるレクスの印象を思い浮かべて、苦笑交じりに語る。
「それでは説明が付きませぬ!」
尚も食い下がる司令室の男達に、スペードキングはやれやれと溜息を吐きながら答えた。
「ご覧になったハズ。彼は上位妖精を4体も持つ者。上位妖精との契約者は、一人で10万の兵が入り乱れる戦場をも掌握すると言う」
そこに居る者達も皆、その言い伝えは1度は聞いた事はあったが、誰もがその言葉を余りにも尊大な言い伝えだと思っていた。
しかしその言葉通りの実力を、現場で味わう羽目になろうとは思ってもおらず、誰もが一瞬理解に遅れるのだった。
誰もが驚きの余り、魂が抜けたような顔をしているが、スペードキングには一つの懸念があった。
(残るのは元凶であるあの巨大な手…だがレクスは一体、あとどれ程の時間、あの姿を維持できる…?)
強大な上位妖精の力を扱うには、相応の莫大なマナの消耗が強いられる。
まして4体同時に維持し、融合状態まで維持するなど、そのマナの消耗は一体どれ程凄まじい事か。
そして、その予測は正に的を射ていた。
「レクス、分かっているとは思うけど…」
ヴァンレクスの中でラルバートの声がした。
勿論レクスもその意図する所は分かっている。
「なら言わずとも分かる。要はあと1分以内にあの手を処理すればいい話だ」
さも当然のように言い放つヴァンレクスは、そのまま巨大な手に向けて飛び始めた。
天も地も分からぬ亜空間の中で魔法陣の上に立ち、幾つかのオーブが眼前に扇状に並んで浮遊する。
そんな中にライフはいた。
別に驚く事でもない。彼女がそう作ったのだ。
そう、それがゴーレムの中であり、その中で彼女がゴーレムを操作するよう作られている。
擬似ホムンクルスとストーンゴーレムの睨み合いが続く。
周囲の人々はすっかり避難しており、本来活気に満ちていた街は見事にゴーストタウンの様相を呈していた。
そして睨み合いは、ふとした一言から崩れていった。
「…どの道アレを出す為の生贄、ならもう新しい生贄は必要ないですね…」
擬似ホムンクルスと化した妖精の視線が反れる。
その視線の先に何があるかなど、確認せずとも分かる。
なるほど、あの巨大な手を呼び出す為の魔法に、何かしらの生贄が必要だったわけだ。
「…なら後悔する事ね、私達二人一緒に取り込めなかった事を…」
オーブに手を触れると、ライフの腕を軸に小さな魔法陣が連なって現れる。
しかしゴーレムが動く前に、先に動いたのはホムンクルスの方だった。
瞬時にゴーレムの前に躍り出ると、次々に拳をゴーレムの岩肌に叩きつけていく。
ゴーレムはよろめくものの一瞬の事。
大した問題にしていないと言う風に素立ちに戻る。
「フフ…」
その様子はホムンクルスには、まるで的にしてくれと言わんばかりにも映った。
ホムンクルスが瓦礫に手を突っ込むと、瓦礫が手に集まり、瓦礫の塊が寄り集まった棍棒になる。
「貰いましたよ…!」
ゴーレムに向かって大きく跳び、その岩の体に瓦礫の棍棒を叩きつける。
岩が弾ける爆音が大きく響いた事は言うまでもない。
流石にこればかりはゴーレムも大きく体勢を崩す事となった。
「さぁ、どんどん行きますよ…!」
更に手を地面に付き、岩の棍棒をもう1本作り上げる。
ゴーレムは右から左から、激しい棍棒の乱打に晒し続けられる事となった。
システィルがかざしていた手を引くと、つい先ほどまで意識朦朧としていた兵士の一人が起き上がる。
「た…助かった…っ、ありがとう」
「いえ…大した事では…」
傷が癒えたばかりの兵は立ち上がり、早々に持ち場に戻ると言い駆け出していく。
恐らく今の兵士で50人前後だろうが、システィル自身助けた人数を数えてはいない。
この野営病院と化した広場に横たわる人々は、聞いただけで2000人は居るという。
それに対し、この場で動ける医師は20人ほど。
また回復魔法が使える者も、システィルを含めて30人程度。
回復魔法と言ってもピンキリである。
システィルのソレはこの場で最も強力な方で、かすり傷を塞ぐ程度しか使えない者も少なくはない。
更にシスティルから見れば、癒した者の影の赤みが消えたワケではない。
今の彼のように再び戦場に舞い戻る者は勿論、避難を始めた住民の中にさえ少なくはなかった。
一体何故運命が変わらないのか、疑問は残る。
しかし先ず彼女のすべき事は目の前にいる人達を癒し続ける事に変わりは無い。
次の人へ向かおうと立ち上がった瞬間である。
目が霞み足元がフラつく。
思わずその場に膝を着いてしまうシスティル。
既に彼女のマナは底を尽いていたのである。
「まだ…まだ沢山居るのに…まだ誰も運命を変えられてないのに…こんな…っ」
気持ちだけは前に進むのに体があまりにも重すぎる。
頭から血の気が引いていき、座っている事さえ難しくなってくる。
―変わった人間ね―
一瞬幻聴まで聞こえ始めたのかと思った。
周囲の人はその声を聞いた様子もないし、それも無理もない事ではあるが…
―バンシーなら見えてるでしょう…このどうしようもない現実と運命…なのに頑張れるなんて…―
「誰?」
システィルは重い頭を起して辺りを見渡す。
やはりそこに居る人達ではなさそうだ。
―良いわ、アナタの心に力が付いて来れないなら…私がアナタの新しい力になって差し上げましょう―
システィルの肩に何者かの手が静かに触れる。
その瞬間、今まであれだけ重かった体が一気に軽くなった。
勿論、万全の状態から見ればまだ重くはあるが、動けなくなる程ではない。
そしてその手が触れた瞬間、システィルはその声と手の主が妖精だと直感した。
何故と聞かれても答えようがない、只そう直感したとしか言いようがなかった。
しかしその手から感じる力は相当強力な力を秘めた妖精のようである。
「何コレ…凄い…!」
はっと見上げたそこには、システィルの着ているものとは少しデザインの違う修道服に身を包んだ女性の姿があった。
彼女の差し出される手に思わずシスティルも手を差し伸べる。
すると彼女はシスティルの手を取り、彼女の手の甲にそっと口付けするのであった。
―妖精契約<コントラクト・フェアリー>―
「!?」
「さぁ…お使いなさい、私の力を…私の名前は…」
突然の爆音が広場を支配する。
広場に面した建物が、何者かに叩き壊されて土煙を上げていた。
広場中の人々が悲鳴を上げ、知人を庇う者、我先に逃げ出す者…と混乱に陥る。
そこには、全長5メルタにもなる、人の上半身を象った泥人形達の姿があった。
一様に飢えた顔をし、辺りの人に掴み掛からんと迫って来る。
そしてその狙いは、妖精の登場によって半ば虚ろになっているシスティルに定められて…
巨大な手に向かって飛翔するヴァンレクスは、杖を大きく振るい、一瞬で巨大な魔法陣を描き上げた。
「ファルベラント…!」
強烈な、極太の光芒が魔法陣から放たれ、一直線に巨大な手に向かって行く。
しかしその光芒は、巨大な手の手前数クルト手前で散霧させられてしまう。
数クルトといっても、その手の平自体が全長20クルトはあるだろう超特大サイズなのだから、相対的に手前と言えなくもない。
「…ほう」
特大サイズという手前、レクスとしては比較的強力な呪文で挑んだつもりだが、ソレを阻む防御魔法を持っているようであった。
「ならば…」
ヴァンレクスは両膝・胸にある模様、そして左手とロッド、5箇所から一斉に魔法陣を作り出し、その5つが巨大化すると1直線に並べた。
「ヴラウェン・フォルダスト!!」
一番手前にある魔法陣をロッドで思い切り突くと、先ほどの呪文より更に強大な光芒が放たれる。
2つ目の魔法陣を貫くと一層その力を増し、3つ目の魔法陣を潜ると数本の螺旋光芒が取り巻き始め、4つ目の魔法陣では遂に外気に稲妻を走らせる程に強力に。5つ目の魔法陣でそれは5つに増殖し、巨大な手へと迫っていく。
その凄まじい魔法の直撃を受け続けると、巨大な手が張っていた防御魔法はひび割れて砕け散るのであった。
そしてその光景は王都からもはっきり見て取れた。
ヴァンレクスが愈々本体に迫ろうとしているのを見て、誰もが沸き立つ。
しかしその中で、スペードキングのみが嫌な脂汗を額に滲ませていた。
(あのヴァンレクスに、魔法5段重ね掛けを使わせて漸く割れる程の防御魔法だと…?)
先にも言ったとおり、上位妖精は1体だけでも大規模な戦場すらも左右できる力がある。
4体もの上位妖精と融合するなど、最早神の力を持つに等しいと言って過言ではない。
そんなヴァンレクスが渾身の一撃を放たねば成らなかった相手の魔力の底ははあまりにも深すぎる。
(ましてや渾身の一撃を放っている間、あの手は殻一枚に閉じこもっていれば…)
「いかん!!」
スペードキングが立ち上がり、周囲の視線を集めたその直後であった。
あの強大な魔法を撃ち終えたヴァンレクスが次に見たもの。
あの巨大な手の掌が横一文字に割れ、その割れ目が特大の顎と成っていたのだ。
そして、常識外れの巨体とは思えないほどの速さで顎を開くと、今のレクスの光芒とは比較にならない、あまりにも巨大すぎる光芒をその口から放った。
それは一瞬でヴァンレクスを飲み込み、王都の上空を通過していく。
荒れ狂う暴風が王都中を包み、その大きさだけで王都を飲み込まんばかりに巨大すぎる光芒は、光は放っておらず、不気味過ぎるまでの黒々とした光芒であった。
その光景に、今までヴァンレクスの勝利を確信していた者達は勿論、否、その光芒を目にした誰もが、一瞬で絶望に飲まれた。
逃げ惑う覇気も、泣き叫ぶ気力も失わせる程の絶望を与える禍々しい魔力が、その光芒には秘められている…そう言わしめる程であった。
「そんな…バカな…」
「ありえん…いくら何でも…」
司令室の男達も、誰も逃げ出さない。
逃げ出す気力も奪われたと言った方が良いか、絶望を呪う文句を呟きながらその場に次々とへたり込んでしまう。
あの光芒の前では、何処に逃げても変わりはしない。
ただ、一縷の望みを掛けて、光芒に飲まれたヴァンレクスの姿を探す。
しかしその光芒が収まって、あの赤い鋼のマントを身につけた巨大な魔術師の姿は、遂に見つかる事はなかった。
「終わり…だ…この国の何もかも…」
「クッ…ええい立て!それでもお前は指揮官か!」
スペードキングは一人の男の胸倉を掴み上げて怒鳴る。
最も彼も気持ちが分からぬワケではない。
そもそもあんな化け物に一体どう挑めば良いのか、彼とて皆目検討もつかない。
しかし誰かが立ち続けなければ、万に一つの希望も失うと奮い立つより他に無かった。
「アンタはどうするって言うんだ!」
抗議の声を上げる男だが、黙って睨みつける以外の方法が無い。
「絶望は…」
突如、不意に聞こえた声に、スペードキングを含め、誰もが呆気に取られた。
「希望と表裏一体…」
その声の主にハッと気付き、巨人の前に消えたあの魔術師の姿を再び探し始めた。
「どんな絶望も解釈一つ、やり方一つでどんな希望にもなる」
そして、先ほど光芒に呑まれたその位置に、再びヴァンレクスが現れる。
そう、現れたのだ。全てが無に返ったハズの、何も無いその場所に。
「…フィルの言葉だ…」
静かに呟くヴァンレクスは、再び眼前の巨大な手を睨みつける。
「そして…!」
ロッドを大きく振り、巨大な手に向けながら声を張った。
「全てが飲まれそうな絶望だと言うなら、俺が限りない希望に変えてやる!」
巨大な手の大口が、驚きと不快感に歪むのが見て取れた。
次の瞬間、その大口を開くと、何とヴァンレクスを飲み込んでしまう。
「なっ!?」
ソレを見ていた者達の顔に、誰もが驚きの色が浮かぶ。
しかしそれも一瞬の事であった。
巨大な手の指が突然苦しそうに震えながら仰け反っていき、その手に次々と光を伴うヒビが走っていく。
その手がボロボロに壊れながら崩れていくのは間もなくの事であった。
崩れていくその手の中から、赤い鋼のマントを翻す魔術師が現れたのは言うまでもない。
大勢の怪我人が運び込まれていた広場。
今そこでは、誰もが目を覆っていた。
それはあの泥ゾンビが今まさにシスティルに襲い掛かろうとした光景を目前にして…という意味もある。
しかしもう一つの理由があった。
それはその瞬間、システィルを中心に強烈な発光現象が起こったからである。
徐々に、恐る恐る目を開く人々は、意外な光景を目にする事になった。
泥ゾンビは砂となって、システィルを中心に放射状に吹き飛びながら粉々になって散らばっていた。
そしてもう一つ。
全身から黄金の光を放つ、尾羽を広げた孔雀の姿をした何かがシスティルの肩に留まり、またシスティル自身も淡い光に包まれていたのだ。
「一体何が…?」
一人の男が何気なく手を伸ばす。
そこで自らにも変化が起こっている事に気付いた。
その男はつい先ほどまで、腕に重度の怪我を負っていた筈だった。
慌てて確認するが、やはり異常は見当たらない。
「!!」
そして周囲に居た者達も次々に気付く。
そこに居た誰もが自分に、また周囲の人々に起こった変化に気付き、我が目を疑う。
2000人を超えていた怪我人の傷が、あの一瞬で癒えるなど一体何事だろうか。
癒しの魔法でシスティルに敵う者はそうそう居ない。それでも50人も癒せばマナが枯渇するというのに…だ。
怪我人だった者や付き添いの者、医者達の口から零れるどよめきに、次第に歓喜の色が混ざって来るのに時間は掛からなかった。
そんな人々に、システィルはゆっくり視線を移す。
ソレと同時に、妖精との契約で軽くなった体に再び襲い掛かる過度の疲労感。
抗いようも無い強い眠気に意識を奪われる直前、システィルはその目でしっかりと見ていた。
歓喜の声を上げる人々の中に、その影に赤みを残す者は誰一人として居なかった事を。
地面に叩きつけられるストーンゴーレム。
その岩の表皮はひび割れ、大の字で横たわり無残な姿を晒していた。
ゆっくりと歩み寄るホムンクルスがゴーレムを見下ろす。
そしてその手に握っていた棍棒に目を遣った。
「…変ですねぇ…」
ホムンクルスが吐いたのは優越の台詞ではなく、疑念とも取れる台詞であった。
「それだけ殴っても立ち上がる動作に何の澱みもない…攻撃してくるかと思えば何もしない…」
正にその言葉どおりだった。
何度殴って地面に寝かせても立ち上がってくる。
立ち上がるのだから動けない筈がないのだが…避ける様子もなければ反撃を仕掛ける様子もない。
そして立ち上がる動作もおかしい。
あれだけ殴ってボロボロにも関わらず、意にも介さないほど動きに異常が見受けられないのである。
「無駄なコトは嫌いな主義なの」
「…では必要があってカカシを演じている…と?」
淡々と、しかし含みのある台詞を口にするライフに対し、口調で余裕を見せつけるホムンクルス。
何度目になるだろうか、立ち上がるゴーレムは、やはりその動きに淀みが無い。
「分析が終わったわ…それに重苦しい偽装も、もう要らないわね」
ライフがオーブに触れ、魔法陣が現れては弾ける。
するとストーンゴーレムの外皮のひび割れが一層大きく走り、次々と剥がれ落ちていく。
岩雪崩のゴロゴロとした重い音と共に表皮が剥がれ落ちると、そこには鋼の表皮を持ったゴーレムの姿があった。
「…ほう、アイアンゴーレム」
「フレイゴーレムと言い直しなさい」
外皮を脱いだフレイゴーレムの雰囲気に只ならぬ何かを感じたのだろう、ホムンクルスが両手の棍棒を重ねると、巨大な斧へと姿を変える。
そしてその斧をフレイゴーレムへと振り下ろすが、今度はその結果は岩の外皮の時とは大きく違った。
フレイゴーレムに触れる数ゼネル手前で、突然その岩の斧が粉々に砕け散った。
「…ほう…」
低く唸るホムンクルス。
なるほど、偽装の岩肌とはワケが違う。
この鋼の外皮の上に更に、防御魔法の類を分厚く、錬金術の技術を応用して発動させている。
「ならばコレは如何でしょう…?」
ホムンクルスが自らの額に指をめり込ませると、力づくで額を割っていく。
体液の類は溢れず、真っ赤な目のようなものが現れると、強烈な光を発し、大きな光芒を撃ち放っていく。
その光芒の直径だけで軽くフレイゴーレムを飲み込んでしまい、直後、ゴーレムが立っていたその場で大爆発を起す。
「さぁ、これで生きていれば随分なものだが…」
もくもくと立ち上る煙を暫し眺めていたホムンクルスだが、数秒後その視線には少々険しいモノが見て取れた。
「…今の、その体を構築するのに吸収した人達の魂をエネルギーに換えて撃ったわね…?」
煙が徐々にその大きさを縮め、その中からは全くの無傷のフレイゴーレムが現れた。
「ええ。…それにしても、よくもまぁそんな頑丈なゴーレムを…」
光るライフの眼鏡の奥からは、その表情を伺う事はできない。
只一言、呟くのみであった。
「もう…黙りなさい」
感情の乗っていない、どこか気だるげな声。
するとフレイゴーレムは、巨大なナックルに覆われた左手を前に突き出し、腰を深くする。
辺りに鈴ともまた違う、甲高い澄んだ音が響き始めた。
その音源はすぐに気付く。
フレイゴーレムの背中にある、大きな流線型の物体からであった。
「おや、今度はどんなドッキリ仕掛けを披露してくれるんですかねぇ?」
ライフは答えない。
否、答えはしたと言えなくもない。
但しそれは口頭ではなく…。
「な…なんと…」
次の瞬間には、ホムンクルスは建物に深く体をめり込ませ、ゴーレムの大きなナックルは更にホムンクルスの胸を貫いていた。
ホムンクルスにはその動きは辛うじて見えたが、反応ができなかったのだ。
距離にして70メルタほどではあったが、その70メルタを文字通り瞬きするような一瞬のうちに詰めたのだ。
それ以上の特別な動きはない。
純粋にその加速力は凄まじいの一言である。
そして、ゴーレムの大きなナックルは、ホムンクルスの左胸を貫いていた。
「分析は終わってるの。リーフは返してもらうわ…」
めり込んでいるナックルの先が開き、中に居た誰かを包み込むようにして再びナックルの先端が結ばれる。
「ああ、ついでに滅びなさい…」
再び、あの甲高い澄んだ音が聞こえてくる。
しかし今度は背中の流線型の物体だけではない。
ゴーレムの全身からその音が聞こえてくるのだ。
「アナタの存在…一秒の間も残してあげないわ…」
ゴーレムの目が強く輝くと、その鋼の全身からナックルに向けて光が集まっていく。
その光はナックルからホムンクルスへと力強く流れ込んでいく。
「うおおっ!装甲といい加速といい…そしてこの技といい…!」
ホムンクルスはそれ以上の言葉を発する事は、遂に無かった。
ナックルから流れ込んだ光は、ホムンクルスの体をバラバラにして突き破り、周囲に強烈な閃光を振り撒く。
「返してもらったわよ…」
ゴーレムの胸に魔法陣が浮き上がり、ライフが飛び出してきた。
今のゴーレムは蓄積したマナが枯渇し、腕を動かすのも難しい状態である。
飛び出してきたライフは一直線にゴーレムの左手に飛び移り、巨大なナックルで掴んだ者の元へと駆け寄るのだった。
左手のナックルを外からオーブを当てて操作し、中に保護した者を外に連れ出す。
そこには他でもない、自身と同じ容姿をした者…リーフがいる。
「驚かせないでよ…妙に凝った失敗なんだから…」
ライフがリーフへと手を伸ばす。
反応が無い所を見ると眠っているのだろう。
ライフは最初はそう思った。
緑の狼に乗って疾走する男が一人。
巨大な左手との戦闘を終えたレクスであった。
巨人魔法を解き、レンバートも緑色の毛並みの狼の姿である。
高速とはいえ駆け抜ける程度のマナしか供給していないのは、それだけのマナを捻出するのが精一杯なほどに消耗していたという面が大きい。
事実、レクスの表情には珍しく余裕が余り無い。
「いやはや、システィルさんも無事なら良いんですが…」
そしてそんな彼がわざわざ少ないマナを使ってでも急いでいる理由は只一つ。
先ほどの戦闘が終わって間もなく、システィルが瓦礫の下敷きになったと聞いたからであった。
「そういう事は先に言え!」
「いやはや、ソレで動揺させて、先ほどの戦闘で油断をさせるワケにも…ねぇ」
「そういうヘマをするほど俺は能無しじゃない!」
相変わらず独特の口調で答えるオルバート。
「やれやれ…」
零れそうな苦笑を噛み殺しながら、いつの間にか周囲の景色が首都の中に変わっていた。
そしてレンバートが足を止めた場所は、既に瓦礫の山となっている、ライフ達が泊まっていた宿の前である。
「死臭が漂うが、既に彼女はここには居ないな…」
レクスもレンバートから居りて辺りを確認するが、レンバートのその一言で、一先ずその場でシスティルが最悪のケースを迎えた可能性は否定された。
「…ん?」
宿から程なく離れた場所に、血の塊が破裂したような特大の跡が残っている。
嫌な鉄の臭いは血のソレに変わりは無いが、その膨大な量は一人二人の分とはワケが違う。
そして既に表面が固くなり始めている所から、ソレは多少の時間が経っているのだろう。
あの規模の襲撃ならば、犠牲者が大勢出ていても何ら不思議はないが、その跡の形は奇妙である。
まるで大勢の生物を一つの塊にして破裂させたような…。
「レクス!」
レンバートの声に振り向くと、そこには見知った顔が2人分セットであった。
透き通るようなパステルグリーンの髪に細く丸い縁の眼鏡を掛け、長く尖った耳を持った二人。
一人は力無く近くの建物の壁に凭れ、力尽きたかのように項垂れており、膝枕で眠っている姉妹の顔を包み込むように腕を回している。
その項垂れている方が、遅れる事数秒を要し、漸く頭を上げた。
表情はあまりにも生気を感じられず、整った鼻筋や頬には涙の跡が刻まれている。
「…何でこうなったの」
彼女は普段から感情を表す事はない。
今もその点は変わらない。
しかし明らかにいつもとは違う何かが彼女の心に差し込んでいるのが分かる。
レクスは口を開かない。
その態度に不快感でも覚えたのか、彼女は驚くほどに語気を荒げた。
「何でこうなったのよ!!」
彼女の膝の上で眠る、もう一人の彼女は起きない。
呼吸をしている様子もなければ、マナの循環も感じない。
そこにいるのは、もう一人の彼女だった亡骸であった。
「いつも一緒だったのよ…やろうとする事も…考える…事も」
彼女は亡骸の額にそっと手を置き、再び気力の無い顔を伏せる。
「それが…私はゴーレムを生み出して生き残って…この子は巨大なホムンクルスを生み出して…死んだ…」
レクスも目を伏せる。
強い意志を宿した表情のまま、口を開いた。
「ならそれが結果だ…この世の中に”同じ”人間は居ない…生まれて初めて、違う道を選んだ結果だ」
それは残酷な答え。
ライフには、反論する余地も気力も、僅かにも残されてはいない。
「違う道…。どっちが正しい道だったのよ…」
「お前が見極めろ。お前の道はまだ終わっていない」
彼女の手は小さく震えていた。
「アナタに…何が分かるのよ」
それは怒りなのか哀しみなのか、分からない。
その手の震えを見て、レクスは踵を返しオルバートを呼びつけた。
「仕方ないですね…ですがあと2割ほどマナを頂かないと」
レクスはそれ以上何も言わず、微かなマナをオルバートに与えると、亡骸を背負い、彼女を引っ張り上げるようにして立たせる。
当初の予定であったシスティルの捜索をオルバートに任せたのだった。
何にせよここで放置しておく訳にもいかない。
適当な宿を探しに行く事にした。
「リーフ…なんで…」