03:救いし者
そこは山奥の高原に広がる小さな街。
朝霧越しに街の建物が朝日を浴び、ソレと共に人々も1日の活力を得て起きはじめる。
小さいとはいえ一通り必要な施設は整ってはいる。
その街の一角に聳える教会もその施設の一つだった。
「システィルお姉ちゃん!」
朝から、教会に向かって走ってくる子供達が数人。
およそこの時間に、教会の表に姿を現す修道女が居るのだが、子供達が呼んだのはその修道女だった。
「あら、デリス君にコルト君リネちゃんも、おはよう」
朝の爽やかな空気にも劣らぬ物腰で迎える修道女。
「今日も広場のお掃除?」
「そう。今日はお昼から空いてるから、それから一緒に遊ぼうね?」
「僕達もお掃除手伝うー!」
「ふふ、ありがとう」
元気のいい子供達の声に微笑むシスティル。
彼女はその人柄や活動、癒しの力に於いて、この村のみならず、近隣の村々までも知らぬ者は居ないほど有名な聖女だ。
無論子供達にも受けがよく、彼女も空いた時間を見つけては子供達の相手をしている。
意気揚々とした子供達を連れ、広場へ向かおうとした。
「あぁシスティル、久しぶりだねぇ」
後ろから声が掛かる。
聞き覚えのある初老の男性の声だった。
振り向くとそこに居たのは、隣の領地の街の大聖堂の副司祭だった。
「ライル副司祭!お久しぶりです」
突然の来客に驚きの声を上げて深々とお辞儀をするシスティル。
「ハハ、君に救われたという声はよく聞くよ。立派じゃないか」
「いえ、そんなコトないです…」
「来月のミサについてマロフ神父と話しに来たんだが…そうだ、コレを村の役所に届けて貰えるかな?」
ライル副司祭が懐から書類を取り出して差し出す。
システィルも一言、「承りました」と添えて受け取り、まずは副司祭をマロフ神父の部屋へと案内する。
システィルの案内で通された部屋で、二人の初老の修道士…ライル副司祭とマロフ神父は、窓の向こうの遠ざかっていくシスティルを見送る。
「彼女が入信して5年でしたな、修道女の模範生と言って遜色ない…頼もしい限りですな、神父」
「有難いお言葉…ですが、彼女は些か肩に力が入りすぎておりまして…ずっと気にはなっておるのです」
マロフ神父を見ると、どこか憂いの篭った表情で、既に後姿も見えなくなったシスティルを見送り続けていた。
「彼女に救われた者は大勢おります。ですが…まだ彼女の心は救われてはおりません」
それは、常に近くで彼女を見てきたが故の言葉。
彼女にはまだ大きな未練がある…と。
広場から役所までは目と鼻の先である。
子供達には役所に少し用があるからと言い、一人役所に入ったシスティル。
この村人は皆懐が深く信頼関係も篤い。比較的平和な国の中でも特に治安が良い。
子供達の中で一番の兄貴分であるデリスに任せておけば安心して居られるのだ。
「なるほど、来月16日のミサに…では、お父上…いえ侯爵に伝えておきますよ」
「はい、宜しくお願いします」
律儀に頭を下げるシスティル。
踵を返し、子供達が居るであろう広場へと戻ろうとした時、システィルの足が止まった。
いや足どころではない。
不自然なほどに挙動も、思考すらも停止した。
その視線は、待合室にいた人物に注がれていた。
「先生、本当にここまで来る必要があったんですか?」
「戸籍のある役所じゃないと手続き受け付けてくれないんだ…仕方ないさ」
レクス・アルベイル。
当時の面影とピタリと一致する青年。
再び思考が動き出したかと思えば、彼女は一直線にレクスの元に駆け寄っていた。
「レクス!」
「って…誰かと思えばシスティルか…?」
尋常ではない、混乱と言っても良い様子のシスティルに冷静に返すレクス。
「何で…戻ってくるなら連絡くらい…!」
実際システィルは混乱していた。
或いは今まで忘れたようであった程に、深く押し殺してきた感情が一度に溶解し、自分が何を言い出すのかすら制御できないほどに。
それは、今の今まで副司祭や神父に期待され、子供達や街の人々に慕われた聖女とは思えない態度。
溢れ出してきた感情は、彼女を聖女から一人の女性へと引き戻していた。
「悪いがあまり長居は出来ん、魔導師資格が取れたら直ぐにでも街から離れるつもりだ」
「な…!?…今…何て…!」
「魔導師資格を取りに来ただけだ…と言った」
「っっ…!!」
制御しきれなかった感情を爆発させるには、そのほんの僅かなやり取りだけでも十分過ぎた。
待合室のロビーに大きな乾いた音を立て、システィルは走り去っていく。
待合室には表情一つ変えないながら、頬に真っ赤な手の平の跡を残したレクス。
そして話について行けずオロオロするラティアが居た。
「あぁぁあれ??今の人…??」
「…チビの頃からの付き合いさ…職位や格好は変わっても、中身は変わってないな…」
目を伏せながら立ち上がるレクス。
いつもの淡々とした様子ではあるが、どこか懐かしさと共に、何かを思っていたようにラティアは感じた。
「んんー…いいのかい?レクスくん」
あのやり取りに、流石に受付の人も気を遣う始末だが…
「今は少し厄を背負ってるんでね…出来るだけ関わらせない方がいいんだ」
システィルは走り続けた。
広場はとうに駆け抜け、子供達の呼び声も上の空、どこに行くでもなく、道の続く限り走った。
ようやく溢れ出した感情の片鱗が理解でき始めてきた。
悲しく、辛く、悔しく…
「何で今更…もう諦めたハズなのに…!」
それはレクスにではなく、自らに問いかける言葉。
「あぁ…っ!」
足が縺れて派手に転んでしまう。
感情に任せて走っている上に元々着ている服は聖職者の法衣。当然と言えば当然であった。
よろけながら体を起こす。
地面に叩きつけられた体が鈍く痛み、掌には擦り傷。法衣も土埃で白く汚れてしまった。
しかしそんな体の痛みもシスティルにとってはどうでもいい。
記憶の深くに封印していたレクスの記憶がどうしようもなく蘇って来るのだ。
この街一帯の領主、フォーリア侯爵の娘であったシスティルは、家の目を掻い潜ってよく街に遊びに出たものだった。
しかし他の子とはなかなか馴染めず、苛められるか無視されるかであった。
そんな彼女の友人は二人。一人は3つ年上の女の子フィルと、あのレクスだった。
先程のように不器用な態度だが決してシスティルを放っておかず、自分が苛められていれば割って入り、いつの間にか二人して苛められ、街ではある種のガキ大将的な存在であったフィルが飛び込んできて収まる…といった具合だった。
常にレクスやフィルの後ろを付いて回り遊んだものだった。
何かにつけて泣いていた気がする。あのレクスに泣き虫呼ばわりされたのも昨日の事のようだった。
しかし変化は突然訪れたのだった。
姉貴分だったフィルは騎士団に入ると言って街を去っていったのだ。
それだけなら、寂しいながら何とか耐えられた。
しかし、それから日をおかず、遂にはレクスまで街を去っていた。
「バカ…っ!私の気も知らないで居なくなったり帰って来たり!」
顔を伏せたまま、腹の底から湧き上がる物を一気に吐き出すように呟く。
役所のロビーは石畳に石の柱と壁で囲まれた、そこそこ広い空間。
奥の壁中央には、領主でありシスティルの父、フォーリア侯爵の肖像画が掲げられていた。
レクスもシスティルと顔をあわせて以来、しばし昔の記憶に耽っていた。
フォーリア侯爵は貴族の中でも変わり者呼ばわりされるほど平民寄りの人物だった。
公務の間を縫っては平民達と一緒に鍬を担いで畑に出る事もしばしば見られ、いざ災害とあらば陣頭指揮を執ったり…といった具合である。
そんな侯爵に口をぽかんと開ける小間使い達の顔を何度見ただろうか。
侯爵の娘システィルもまた、どこかそんな父に似たのだろうか、小間使い達の目を盗んでは街に繰り出していた。
なかなか街の道順を覚えられないのか、街角で道に迷っては泣き、街の子供達にちょっかいを出されては泣き…とにかく彼女を見てきたうちの半分は泣いてばかりだったようにすら思う。
まだ7つか8つの頃だっただろうか。
街の外れで男子の間で密かに話題になっていた木があった。
立秋の時期になると赤い実を成らせ、その実の味が美味だというのだ。
同い年の5・6人が集まって早速その木に登り、その果実を失敬する。
レクスもそんな中の一人だった。
「おーい、貴族の泣き虫が来てるぞー」
誰かがそう言うとなるほど、近くの別の木の陰に見慣れた女の子の姿があった。
セミロングの艶やかな黒髪に泣き腫らしたような赤い瞳、白いチュニックドレス姿の女の子がそこに居た。
「何…してるの?」
慌てて身を引っ込めたり…とモゾモゾしていたが、ついに顔を出して話しかけてくる。
「うわっ、またアイツか」
「見つかっちまったぞ!?」
仮にも街で一番偉い人の娘だという事は皆知っていた。
秘密の木が見つかって何かされると思った男の子達は、厄介な野良犬でも払うような態度を見せ始めた。
そんな態度を見せた途端、やはりこの子のあだ名通り今にも泣きそうな顔をする。
「登って来いよ」
一人の男の子が声を上げた。
一斉に思いもよらない言葉を吐いた者に視線が集まる。
他でもない、レクスだった。
「おいおい、俺達のが無くなっちゃうだろ!?」
非難轟々だが気にしない。
レクスの声を聞いた女の子は木の幹に近寄り手を当てる。
しかしそこから上を見つめたり木を観察したり…遂には困った顔をしてしまう。
木登りも出来ないのかとレクスは呆れ返り、実を2・3個つけた小枝を手折って口に咥えて降りようとする。
枝の高さは身長より少し高いくらい。幹を伝って降りるより飛び降りる方が早いと踏んだ。
一度両手でぶら下がって着地…のハズだった。
ところが足を滑らせ、慌てた末にぶら下がるどころか直に落ちてしまった。
「レクス!?」
大の字になって目を回すレクスに駆け寄る。
恐る恐る伸びているレクスに手を伸ばしていく。
しかしそこにあるのは追い討ちだった。
「何だよソイツの方がいいのか?」
「いっそケッコンしちゃいなよ」
木の上から降りかかる罵声や笑い声は、レクスに縋り寄る女の子には余りにも酷だろう。
盛大に泣き出すまでに時間は掛からなかった。
「あ〜ん〜た〜た〜ち〜!!!」
女の子の泣き声に混じり、ドスの聞いた声が聞こえた。
つい今の今まで笑っていた男の子達の顔が一瞬で凍りつく。
やはり女の子の声…だがレクスの傍にいる子のものではない。
誰からともなく、油の切れたゼンマイ人形のような動きで振り向く。
そこには10歳前後だろう女の子…の姿を借りた仁王がいた。
真紅の髪をツインテールに縛り上げ、その形相と相まって炎のように逆立ち揺れているようにも見える。
「フィル!?な…なんでここが分かったんだよぉ!」
一人が搾り出した言葉が、まさか火蓋を切る行為になるとは誰も予想すまい。
「何で?当たり前じゃない」
フィルと呼ばれた女の子が一歩近づく度に木の上で居竦んだ猿と化した男の子達の肩が跳ね上がる。
果たしてフィルは樋熊と言うに等しいだろう。
「ここはうちの畑の直ぐ傍だぁぁぁあ!!!」
一気に駆け出す樋熊ことフィル。
飛び跳ねると両足で思い切り木を蹴って揺する。
猿と喩えたが所詮は人間の小僧である。
その揺さぶりを前に、あえなく次々と落下していくのだった。
余談だが、フィルの父はそんな娘のお転婆ぶりをも、近くの畑で聞きながら悠々と野菜を収穫していた。
「ふむ、あっちでは4・5人ほど収穫…っと」
目を覚ましたレクスが目にしたのは、相変わらず泣きっぱなしの女の子。
そして仁王立ちのフィルが睨む先には一目散に逃げていく、先程の木の実採り仲間達。
フィルがレクス達の方に向き直る頃には、幼い仁王の表情はない。
悪戯っぽく微笑む年相応の少女のソレであった。
「アンタまた無茶やったわね…ホントに」
顔を背けるレクス。
しかし「無茶で悪かったな」とでも言いたげな表情が露骨に出てしまっていた。
溜息一つ漏らすフィルは、傍らに落ちていた木の実を取ると、隣で泣いていた女の子に差し出した。
暫くは泣きっぱなしではあった。
しかし漸く落ち着いてくると、吃逆の収まらないまま小さな手で受け取る。
その様子を安堵して見守ると今度は隣である。
「ほーらっ!アンタもいつまでもそんな顔しない!」
レクスを強引に抱え込むと、その口に木の実を捻じ込んでいく。
腕の中で多少モゴモゴ言って抵抗しているが、まぁ気にしない。
「先生…?」
ふと、隣から弟子となった狼少女の声が届いた。
「どうしたんですか?何だか遠いものでも見るような目で」
「いや、何でもない…」
さっとシラフ顔に戻して素っ気無く返す。
しかしふと、思う節があり少女に諭す事にした。
「ラティア、最も初歩的で、最も難しい魔法がある…なんだと思う?」
突然の問い掛けに訝しげな顔をするが、口元に指を当てて考え始めたようだ。
「うーん…コモンマジック…?」
なかなか思い当たるものがないのだろう、迷宮入りし始めたように唸りの度合いが酷くなる。
「”言葉”だ」
「え?」
「ただの一言唱えるだけで、時には強い絆も深い亀裂も呼び出す…最も身近で、強力な魔法だ」
ラティアはただ呆気に取られていた。
だがふと気がついた。
不遜な態度ばかり取っていたレクスの表情に珍しく、嘲笑のような色が浮かんでいた。
「悪いが俺は、この魔法ばかりは今でも苦手でな…」
「レクス・アルベイルさーん!」
窓口で呼ばれ、呟くように言い伝えながら立ち上がる。
「これ以上余計な呪文でどうにかなる前に、さっさと離れるべきと判断した…個人的な事だがな」
果たして誰を指して言った言葉なのか、ラティアとて愚かではなかった。
「本当に…いいんですか?」
その呟きがレクスに聞こえたかどうかは定かではない。
発行された免許と書類を窓口で受け取り、魔導師資格の取得を完了する。
窓口に座っていた男は、先程システィルとのやり取りを見ていた男だ。
「何の厄かは知らないけど、1日くらいゆっくりして行ったらどうかい?」
しかしレクスは頑なに首を縦に振ろうとはしない。
「そうかい…まぁまた戻って来なさい、君の出身地だ」
「落ち着いたらそれでもいいかもしれんな」
免許を懐に、書類を持っていた袋に捻じ込むと、足早に窓口を後にした。
戻ってくるレクスを見れば、ラティアが駆け寄って来る。
「やっぱり少しはゆっくりと…せめてさっきの人と話すくらい」
「それがマズいんだよ」
レクスの歩く速度は変わらない。
ラティアは師のそんな様子にオロオロするように付いていくしかなかった。
「街のトカゲ男に、この前の谷の竜…僅か2日の間に2度の襲撃…しかも対策のオマケつきだ」
「でも!」
「相手は俺を始末するか試している、みすみす親しい相手が居る事を露呈するなど、そいつまで巻き込むと同意義だ。そうでなくとも俺が狙われている以上、長居するだけで街に危険が及ぶ可能性が高まる」
役所の扉を開けると、東から差し込む清々しい陽の光の横殴りを受ける。
目元を手で覆い、鬱陶しいほど目に差し込む光を遮ると、そこには一つの異常があった。
そこに居たのはシスティルが連れて来た子供達。
異常の正体…それはその子供達が皆倒れていたのだ。
「な…」
駆け寄ろうとしたラティアを制したのはレクスの腕だった。
「想定範囲内だ…悪い方向でな」
ラティアの表情が険しくなる。
正に今話していた内容が現実のものになった事を直感したからである。
険しい表情のまま再び子供達を見やれば、倒れていた子供達3人が力無い調子でゆっくりと起き上がっていく。
その瞳は怪しく輝き、ラティアの直感を裏づけたのだった。
キリが無く毀れ出す記憶と、その度に溢れ出す涙。
システィルが項垂れる目の前の地面だけ、雨が降ったように濡れており、一体どれほど泣き腫らしたか物語っていた。
いい加減戻らないと子供達も心配するだろう。
頭の隅ではそんな冷静な部分も出てきたが、如何せん溢れた心が言う事を聞いてくれない。
そんな心を急激に覚まし、現実に引き戻したのは、心臓を突くような地響きと轟音だった。
大砲が炸裂したような大きな音。しかし音の質は何か少し違う。
そして聞こえた方角を冷静に振り返るとぞっとした。
それは正に自分が走ってきた方角。
役所がある方角に他ならなかった。
あそこにはレクスがいる。連れて来た子供達がいる。
延々と泣いて疲れたのも忘れ、弾かれたように引き返していた。
レクスや子供達が心配で駆け戻ってきたはいいが、元々体力がある方ではないシスティルにとっては心臓が破裂しそうなほどだった。レクスが帰って来てから色々心臓に悪い。そんな悪態を心の中で付きながら、重い頭を上げた。
そこには先程の成長したレクスの姿も、子供達の姿もない。
あるのは3体の巨大で素早い怪物と、その間で戦う青い巨人の姿だった。
怪物は素早くて特徴が掴みにくいが、見る限り猿か亜人のような、深緑の皮膚を持つ怪物だ。
そして青い巨人…システィルはまだ知らない、他ならぬ巨人魔法の姿のレクスである。
しかしその様子は戦いと呼ぶには少々語弊があるかもしれない。
右に左に激しく飛び回る怪物を相手に、辛うじて剣で受け止めているだけで翻弄されているようにも見える。
「何…?何なのコレ…!?」
探している者は誰一人見つからず、見慣れた広場はさながら闘技場。
見慣れないシスティルが混乱しない道理などなかった。
「何よこの怪物…一体どこから!」
そんな混乱したシスティルの声を拾ってしまったのだろう、怪物3匹のうち1匹の注意がシスティルに反れてしまう。
「チィッ!」
レクスの舌打ちにシスティルは、漸く青い巨人の正体に感づいた。
しかしそれは同時に一瞬の…しかし素早い怪物相手にはあまりにも大きな隙を与えた事に他ならなかった。
棒立ちの獲物に飛び掛らない捕食者は居ない。
システィルを狙った怪物は迷わず一飛びでシスティルに鋭い爪を向けた。
「しまっ…」
怪物に再び気を向けた時は既に飛び掛られていた瞬間だった。
10倍はある体格差では、多少の身動ぎで何とかなる状態ではない。
あまつさえ振り向く動作すらスローモーションに見えてしまうほどの速さの違いがある。
システィルの姿は、振り下ろされた爪が巻き起こす土煙の下へと消えていった。
「システィル!?」
明らかな動揺の声がレクスの口から毀れた。
直後に襲い来る残り2匹の爪を片方は剣で受け流し、もう片方は腰を捻って脇腹を掠めながら直撃を避ける。
そのほんの一瞬をやり過ごすと、システィルを襲った怪物を思い切り足蹴にして退かせた。
「大丈夫です…この人は無事ですよっ」
漸く晴れてきた土煙の中から姿を見せたのは、システィルと共に倒れているラティアだった。
正に間一髪でラティアが抱えて跳び、事なきを得たのだ。
その様子を見て冷静さを取り戻したレクスは、再び3匹の怪物を見据える。
「レクス…何でレクスがそんな格好を!」
「細かい事は後だ!」
「何が細かい事よ!!」
埒が明かないとばかりに表情を険しくするレクス。
同時に襲い来る怪物を剣で受け流してやり過ごす。
怪物と一緒にシスティルの口論まで相手にするほど流石にレクスに余裕は無かった。
「とにかくココは危ないです!」
「嫌っ!離れない!!」
どうにかこの場から離そうとするラティアだが、目の前の聖職者の我侭ぶりは相当なものだ。
「構うな、下手に動く方が危ないっ」
「先生!!……ン?」
ふとラティアは、師が相手の攻撃を捌く度に零れ落ちる埃に気がついた。
ワーウルフだから辛うじて見切れた物…それは…
「…爪?」
そう、怪物と化した子供達の爪が、ぶつかる度に削り落とされていた。
ラティアは思案した。
確かに相手は素早いとはいえ、3体相手に未だに決定打を食らってはいない。
反撃の隙を伺っているにしては何かがおかしかった。
しかも唯捌いているだけにしては削れる埃の大きさが大きい。
そして爪を切り落とそうと思えばやりようはあるくらいの余裕はどこか秘めている風にも見えた。
「…そうか!」
ラティアの様子に気づいたレクスの口元に心なしか笑みが浮かんだように見えた。
すると、剣を大きく振り回し、怪物達を刀身の面で次々叩いて跳ね飛ばし、システィルに叫んだ。
「システィル!あの化け物を人間の姿に戻す!回復魔法が使えるなら、元に戻ったあいつらの傷を治してやれ!」
そう怒鳴りつけると、早速体勢を立て直した怪物に向き直り、今度は剣を振り下ろして打って出た。
怪物の肩口にレクスの剣の刃が食い込むと同時に、剣の柄尻の石が光り出し、直後…
「マギウス!」
短く呪文を詠唱すると、怪物から剣に向かってマナの奔流の光が流れ込んでいく。
すると怪物は見る見る姿を縮めていき、一人の男の子へと姿を変えた。
「コ…コルトくん!?」
巨体から開放された子供の小さな体は宙に投げ出され、重力に引っ張られてくる。
「うわわ!…よっと!!」
あたふたしながら少年を抱き止めるラティア。
その顔を覗き込んだシスティルは、あの怪物3匹が自分の連れて来た子供達である事を理解した。
そう考えている間にも次の魔物が迫ってくる。
だがレクスは動じる風もなく、迎え撃つように腰を低くする。
「お前は…コレだっ!」
剣の石が光り、飛び掛ってくる相手の腕を左腕で受け流し、掬い上げるように剣の刃を下から突き当てる。
「タビリオ!」
剣で跳ね上げられた体は瞬く間に小さくなり、レクスの左手の掌に受け止められる。
そして腕の振りの勢いを殺す事なく足元のシスティル達の元へ掌を持っていくのだった。
いそいそと2人目の子供…1人の女の子であるリネをレクスの手から抱え上げるシスティル。
しかし、下ろしていると突然視界が暗くなった。
「!?」
レクスの背後、すぐ目の前に3体目の変わり果てた少年の姿があったのだ。
「レクス!!」
「先生!!」
嫌な金属音と共に、システィルとラティアはぐっと目を瞑った。
あの距離で背後を取られて対応できるなど、卓越した剣士か闘士くらいなものだ。
あのレクスとて無事では済まないだろう。
しかし続くアクションはなかなか起きない。
二人はゆっくりと目を開けると、予想と大きく違う光景が広がっていたのだろう、目を丸く見開いた。
「予測して備えておけば何てコトはない」
涼やかに答えるレクス。
右手に握っていた剣の柄尻…石の付いている部分を怪物の口に捻じ込み、内側から喉を強打していた。
「サジェス…」
口の中に捻じ込んだ石が光ると共に唱え、ついに最後の1人も巨人魔法から解放する事に成功したのだ。
「ウィア・ラセリオール・マクディコル・ファールム…」
横たえられた3人の子供達の前で、そっと掲げられたシスティルの両手から柔らかい光が溢れてくる。
その光は綿胞子のように幾つもの光として手からゆっくり毀れ、子供達の傷口へと集まっていった。
傷は瞬く間に、何事も無かったように塞がり、痛みに顔をしかめていた子供達の表情は穏やかなものになっていた。
柔らかい白い光に照り返されて幻想的に映えるシスティルの姿はなるほど、誰もが聖女と呼ぶ美しさが滲み出ていた。
そんなシスティルの姿を眺めていたレクスとラティア。
特にラティアはここまで幻想的な魔法もあるのかと心動かしながらも、レクスに問いかけた。
「削り取った爪から、相手に掛けられた魔法を調べてたんですよね…さっきの」
レクスは視線を動かすことなく腕を組んで呟いた。
「そうだ…そこまで分かったか…」
正直関心していた。
目のしっかりした小娘だと思っていたが、カマをかけてこれを見抜けるか試してみたという側面もある。
それを見事に見破っていた。
そして同時に、何故それほどの魔術師の卵が、魔術師の卵のままで収まっているのかも気になったのだ。
(案外本当の実力を隠している…?いや何か違うな…)
暫く思考を巡らせていると、システィルの回復魔法が完了したのだろう、振り返って近づいてくる。
「レクス、あなたもよ」
「ん?」
シラフを装っているつもりだが…と思っている間に、システィルの手がレクスの脇腹に伸びてきた。
すると先程の回復魔法の光がレクスの脇腹で溢れてくる。
「立ってる姿勢が少し変だもの、誤魔化してるつもりだったの?」
レクスは軽く溜息をつく事で答えた。
しかしそれは呆れからくる物ではないように…少なくともラティアには見えた。
それと同時に、自分でも気づかなかったレクスの傷を一目で見抜いたシスティルにひたすら驚かされた。
「う…うぅ…」
「!?だ、大丈夫?」
後ろから聞こえた子供達の呻き声は、システィルに再び聖女としての顔を持たせた。
サッと駆け寄ると、子供達の様子を親身に気に掛けている。
「訂正だ、唯の泣き虫は過去の話…立派な修道士になったモノだ」
明け方の騒動はレクスらの活躍で即座に沈静化したものの、流石に役所前の広場での事。領主フォーリア侯爵や教会の神父らの耳に届くまでに時間はさほど掛からなかった。
侯爵の館に呼び出されたのは当然の流れであった。
レクスは昔から見ていたからまだしも、ラティアはあんぐりと開いた口から唯驚嘆の声を漏らすより他に無かった。
通された家の中もまた、どこの城かと言わんばかりの見事な広さと装飾である。
純白の大理石が床に壁にと敷き詰められ、壁には等間隔に馬に跨った騎士の彫像が並び、赤い絨毯とのコントラストにラティアは次々圧倒され続けた。
レクス達が通された部屋も非常に広い。特に奥行きが凄まじく、縦長に並べられたテーブルは優に50人は座れるだろうスペースだ。
そのテーブルの一番奥にフォーリア侯爵とライル副司祭、マロフ神父が着いていた。
「さぁ、こっちまで来なさい」
レクスとシスティルは招きに即応して遠慮もなく…ラティアはそんな二人の堂々とした勢いに圧倒されながらも、慌ててついていく。
焦げ茶の短い髪はオールバックに整えられ、切り揃えた口髭の間から豪胆さを伺わせる笑みを浮かべた男の、力強いコバルトブルーの瞳が席に着いた3人の顔を見据えた。
「まずは初めての子も居るようだから名乗っておこう。私はこの地一帯を陛下よりお預かりしておるガンディオ・ボルク・バンス・マルキ・ド・フォーリアだ」
その表情違わぬ力強い物言いに、ラティアは改めて弾かれたように背筋を伸ばした。
「ら…ラティア・カルチェットです!先生…じゃない、レクスさんの弟子になる為に来ました!」
ラティアのそんな初々しさすらある様子に目を細めながら、侯爵はレクスに視線を移した。
「その年でもう弟子を取るとは、お前もなかなか…」
「今話すべきはソレじゃない…そうでしょう、おやっさん」
レクスの物言いは、近くに控えていた小間使い達、ラティアも含めて、大きく動揺が走った。
しかし当の侯爵は寧ろ、大口を開けて派手に笑い出す。
「はっはっはっ!まだおやっさんと呼んでくれるかレクス!まぁ言い分は尤もだ。では単刀直入に…今回の件について、知っている限りの事を話してもらえるか?」
それからレクスは言われた通り、知っている限りの事を話した。
今まで10日〜数週間間隔で起こっていた国を賑わせた巨人暴動事件…その副首都の襲撃を撃退した事。それ以来極めて短い周期でレクス達が巨人魔法による襲撃を受けている事。そしてレクスの力を探っているような小細工。
犯人は未だに誰なのか掴めず、ここに戻って来たのも資格取得のためのみであり、街に危険が及ぶ前に発つ予定だった事。
「発つ前に起きた襲撃が、正に先程の件…というワケだな…」
「これからも暫くは狙われ続けるだろう…俺の用事もあるし、早々に発ちたいのに変わりはない」
ふむ…と返事を返す侯爵。
すると今度は隣に居た神父に視線を向けて…。
「では先程の話どおりで良いのですかな?」
「欠くのは惜しいですが、それが救いにも繋がるなら…」
レクス達3人は、侯爵と神父の間の話が読めずに頭にクエスチョンマークを浮かべるのみである。
しかしその話の結論は次の瞬間侯爵の口から伝えられる事になった。
「レクス、システィルを連れて行きなさい」
「何だっ…」
「な、なななな何でですかお父様!!?」
レクスの返事が隣から立ち上った金切り声に遮られてしまう。
「あー無駄に声と威勢だけは成長したな…」
「すごい…ですね」
耳鳴りのする耳を押さえて糸目になって机に突っ伏すレクスとラティア。
一方で侯爵は、顔を真っ赤にして動揺するシスティルを何とも手馴れた調子で宥める。
「まぁ聞きなさい、レクスは今大変な状況にある。如何にSランク級魔術師とはいえ支えられる者が居る方がいいだろう」
「状況も何もレクスが旅してるのは…!してるのは…」
言うに困り言葉に詰まるシスティルは、遂にはまた泣き出しそうになってしまう。
「それにレクスが好きなのだろう?」
陥落しそうなシスティルには、父のその一言はあまりにも強烈だったのだろう。
真っ赤な顔のまま沸騰しすぎた蒸気が頭から爆発したように見えたのは半分は気のせいではない筈だ。
「全然ちがぁぁぁあう!!!ああああもう!!私は失礼します!!」
茹で上がった感情を振り払うようなオーバーリアクションで振り返ると、派手な扉の音を立てて退室していく。
「はっはっはっ…どうしようもない子だなぁ」
「申し訳ございません」
特に気にした風も無く笑いだす侯爵に、仮にも立場上システィルを預かっているマロフ神父は深々と頭を下げた。
「いやいや気になされるな」
そんな二人のやり取りを横目に、ライル副司祭がレクスに向けて口を開いた。
「何れにせよ吾等が姉妹システィルは、近隣では知らぬ者など居ない程…司教も非常に期待しておる優秀な修道士です。連れて行けばお役に立つ事でしょう」
レクスは机に両肘を突いて考え始めた。
優秀とはいえ、システィル自身が指摘したわだかまりは残ったまま。
果たして連れて行くかどうするか。
「先生…?」
「レクス」
ラティアと侯爵の声に挟まれ、意を決して立ち上がる。
「これから発つ。システィルは…顔見かけたら連れて行く事にしよう」
立ち上がったまま席を後にしていく。
何人か呼び止めるような声がしたが気にすまい。
ラティアはそんなレクスに振り回されるように、やはり慌てて着いて行った。
退室際に侯爵達に一礼するのは忘れずに。
フォーリア侯爵邸の玄関に真っ直ぐ向かうレクスとラティアだが、その間システィルの姿を見る事はなかった。
「先生、ああ言いましたがシスティルさんの事どうするんですか?」
「撒くに決まっているだろう…尤も言った手前、あいつに見つかったら連行決定だ…全く」
眉間に指を当てて見るからに嫌そうな顔をする。
ここ数日の付き合いではあったが、ラティアはこのレクスの性格は何となく分かってきた。
面倒臭そうにはするが、言った言葉に嘘はつかない。
本当に置いて行く気なのだろう。
そう思うとラティアは溜息を漏らしていた。
街から出て少し経つ。
レクスは一言も喋ることなく、ラティアはどうも気持ちが晴れない。
そういえばここはどこだろうか。
街から歩いて30分の距離にある林道を進んでいるが、これからどこへ行こうと言うのか。
突然足を止めたレクスに反応が遅れ、ラティアは思い切りレクスの背に顔をぶつけてしまった。
「はぶっ!…っどうしたんですか?」
顔を擦りながらレクスの視線を追ってみた。
そこには置いて行くと思っていたハズの人が力なくぺたんと座り込み、1本の古ぼけた木を見上げていたのだ。
レクスはバツが悪そうに頭を掻きながら近寄っていく。
「あ〜…何でお前が居るんだよ」
その人はビクッと肩を跳ねさせて振り返った。
元からか泣き腫らしたからかも分からない赤い瞳がレクスを捕える。
「何よ…レクスだって来たくせに」
バツが悪そうなのはシスティルも同じようで、レクスから逸らした視線が宙を泳いでしまう。
「まぁ見つかった以上は仕方ない、お前も着いて来い!」
「っ!!?何よそれ!!!」
正直レクスの言い分は事情を知っているラティアにしてみても暴論に聞こえた。というか間違いなく暴論だ。
システィルが反感の声を上げるのも仕方ない。
遂には口論にまで発展するレクスとシスティル。ラティアは最早成り行きを見守るくらいなものだった。
しかし何故レクスもシスティルも此処に来たのだろうか?
そんな疑問が浮かんだラティアは自然と、システィルがぼーっと見ていた木に視線が向いていた。
そこには古ぼけて朽ち色あせたリボンが、錆びが浮いたベルを枝に繋ぎ止めていた。
一体いつからそこにあるのかは見当もつかないが、ソレがレクスとシスティルの何かを繋いでいたコトは想像がついた。
「もう分かったわよ!着いていけばいいんでしょ!でもせめて準備くらいさせてよ」
「多少の荷物は追々調達してやる」
「はぁ…強引な所は全然変わってない…」
どうやらシスティルが折れて決着したようだ。
そして思い切ってシスティルに疑問をぶつけてみる事にした。
「システィルさん、あのベルって何なんですか?」
……
一瞬の嫌な沈黙に、ラティアは面食らってしまう。
次の瞬間、レクスは頭を抱えて大きく溜息をつき、システィルは茹蛸さながらの顔で頭から蒸気を噴いてしまう。
「「幼さが生んだ過ちだ(よ)!」」
急に歩き出すレクスとシスティルに、呆気に取られていたラティアは一瞬置いてけぼりにされた。
「あ!?ま、待ってくださいよぉぉ!!」
慌てて追いかけるラティア。
果たして今日何度この二人に置いてけぼりにされた事だろうか。ラティアは苦し紛れに数えたくもなった。
そしてシスティルは真っ赤な顔のまま押し黙り、質問の本当の答えを頭の中で全力で否定していた。
(言えるわけないじゃない!!あの頃、結婚式の真似事を二人でこっそりやってたなんて!!)
レクス達の姿が見えなくなって暫く経つフォーリア邸で、未だに侯爵と二人の聖職者は話していた。
彼らの顔は歓談の延長などではない、真剣そのものの顔つきだった。
「伝説の詩、第1章…か…本当にあの子達が…」
侯爵の顔には豪胆な笑み一つない。寧ろ子供達への憂いの表情すら漂わせていた。
「レクスくんは聞いた話では4体の上位妖精との契約を果たしておるそうで…どうしても気になるのです」
目を伏せる副司祭を他所に、侯爵は空を見上げた。
今朝方は目を刺すような眩い太陽を称えていた空は今、灰色の雲が支配しようとしていた。
「本当なら…荒れるどころの騒ぎではないぞ?」